芸術性理論研究室:
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06.05.2008
METAFORCE ICONOCLASM VOLUME.4-1.06
セルフ・カニバリズム
 

産出項の部分を次回のオペレートを可能にするプログラムとしてシステムへ組み込んでいく河本流のシステム論は、時間や自他を矛盾なく説明するため、一見すると全てを言い当てているかのように思えます。自律的かつ超越論的な自己制作は、自体的な他性を排除しているので、オリジナルへの憧憬がやまない芸術家達には魅力的に見えることでしょう。それまでの経験科学と観念論の拮抗を解きほぐす助力は、パーソンズ周辺から始まり、マトゥラーナ/ヴァレラを経由して、ルーマンへと流れていくシステム論が用意してくれました。自己は他者を「刺激・きっかけ・契機」とするが、他者は自己へ内容を授与するわけではないといった説明であり、「対応と充足」の区別になります。これを受け継ぐ現代のシステム論は、さほどの苦労なく、私達の存在眺望を描写してくれるのですが、やはりシステムと構造をほぼ同義としてしまう経験科学よりの理論であるため、そのままでは心的システムへとは応用しにくいものになっています。当然のように充足部分に関しては、消極的で、相も変わらずに「誤謬・忘却・思想(徳)」の描写すらできません。当研究室はそれらの細かな穴を埋める作業をレポート中間報告(コラム)をとおして行なっているのですが、このコラムでは制作者によった観点でタームを確保したいと思います。

完全独話の中で営まれる人の心的な制作現象は、自己還元ではなく、上述のように産出項を取り込むかたちでの、連続前進的なシステム再構成で大方説明できるのですが、産出項選別の基準が超越・全知的なので、残酷な理論立てになっています。ひとりの芸術家が生涯をとおしてもっとも多く孕み産むものとは、帰属作品ではなく、苦悩と失敗のはずです。もっと述べるのならば、『作品として成立し、かつ、確かに自身の手によるものではあるが、自身の作品として認めるわけにはいかず、著作権ごと誰かに譲渡したいもの』まで創作してしまいます。苦悩の内容はさらに絶望的で、超物理学的であったり、時代的な技術遅延であったりと、無限に先行する心の素朴な自虐の中で自己は宙吊られています。しかしそのような苦悩と失敗があろうと、芸術家の系は作動を停止することなく産出項を列挙していきます。つまり心は次回の行為を可能にする産出項を構成素としているわけではなく、行為の可能性を矮小化するような項までをもプログラムとしてアップデートし、かつ突破していくことになります。ここで着目すべきは、コードではなく心的豊饒全体の前提における心質の形容が、それ自体とはかけ離れているものになっているという点です。確かに心は概念を創発し、切り取り、再構成していくのですが、それらは全て等質のはずです。心的現象を字義どおりブロック化してしまうと、当然的に物理的論理が働き、非整合的なコンサマトリズムは黙殺され、実感できない合理化された心が作られていきます。

序文_誘因』でも述べているように『芸術家による芸術家』とは『自己媒体的』に『自己産出』していく自体者であり、構造再構成者ではありません。芸術家は他者自体を取り込むことなく、自ら自己の心を豊かにしていく自律者でありながらも、他者が選択しうる定義項を項目化する超越論的なフェイズを見せる存在です。それは有機的で感覚不可能な彼岸此岸を超えた臨在者なのです。芸術家は自己のみを糧としているにもかかわらず、それを超えた自己制作を可能にするので、強度的な描写批判では臨界を迎えてしまうのです。

 

以上は『弱度』というタームを要求する直感的な覚書です。

 

2008年6月5日
ayanori [高岡 礼典]
SYLLABUS_2008