芸術性理論研究室:
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05.06.2006

潜在性の有効性

 

俗に有能は無能を理解できないと言われます。しかし有能な者はその批判命題すら理解することができず両者は乖離していく一方です。会話の機会が失われ、能力の格差が拡大・蔓延し、没交渉が足枷を拡充し、有能な者はいつも持てる才能を発揮することなく終わります。出来る者は「やればいい」と主張し、出来ない者は「やる」が理解できず無能のまま留まることに我執します。また中途半端に出来る者は「やればできる」と自己を慰めて何も結実することなく枯れていきます。

私達が「努力によって才能を得る」以上の無責任な啓発に出会うことがない理由は『やる/やらない』といった批判コードが「やる」ことの実様相を背後に隠してしまっているためです。意志と行為の超越的でありながらも連動的である関係性は古来より詳述できない局面であると言われているため、それ以上の論説がないのです。瞥見では「やらない」も超越域を前提にしているので不可知のことのように思われるかもしれませんが、不可知のものを産出すると同時に自らの周辺へ配置することは心の原様相なので行為の保留は論証することなく理解することができるのです。しかし行為への移行・接続はそうはいきません。そこに境界があるので理解しがたい両義性が横たわることになります。ですから上述のサンプルで注目すべきは半端者による「やればできる」といった逃避です。技術と知識の獲得以前と以後を知る者は一度それを能力化すると身に付けるまでの「過程」における一切の苦労を忘れてしまい「簡単なこと」のように思いがちです。記述不可能性によって「簡単」を引き出し、不可知を既知化するのでしょうが、「簡単」の語意には『やる』と「やる」の接続法も差の図式もない理なき戯言を超える主張力はありません。半端者の怯懦を面前にした時「それなら何かやってみろ」と言いたくなる方も多いことでしょうが、それも論述のない戯言以上のものではありません。

「やればできる」といった可能性の潜在といった動因概念はアリストテレスまで遡ることができるのですが、ここでそれが長く続いた誤読の歴史であることを確認したいと思います。これは『意志』の問題以上に私達を空想の世界へ誘った道化なのです。顕在の前段階としてシステムにその形象を与えるといった意味での潜在性が有効ならば、能力ある者に失敗はあり得ないことになります。「私は歩くことができる」と主張できる健常者が転ばない確証などどこにもありません。もしポテンシャリティーが行為を決定しているのならば、私達は転びながら歩いたり、文字を書きながら何も書かないような経験を可能にしてしまいます。ひとつの潜在力はそれを否定する含意の一切を排除するものではありません。可能性という段階は対立する項目が並存する超越的的なものであり、行為を基礎付けてなどいないのです。私達は行為におけるひとつのシークエンスで同カテゴリーのものを複数選択することができない有限の縮減者であることを忘れてはいけません。

 

ここで潜在的動因を批判することによって、行為至上的な主義を導出したように思われる方が居られるかもしれませんが、そこに帰結はありません。前々回のコラムで述べたように可能性も『意志』の問題と同様に行為を超えたものであり、「できた」から「できる」わけでも、「できる」からといって普遍的に「できた」を導くわけでもない素朴な事実を確認しておきたいに過ぎません。

これは「我思う〜」でなく「我能う〜(メルロ=ポンティ)」でもない、積極的かつ端的な言及域の確保なのです。

 

2006年5月6日
ayanori[高岡 礼典]
2006_春_SYLLABUS