芸術性理論研究室:
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04.23.2006

行為は意志や情動を先導するのか

 

理由があるのかないのか見当もつかない不透明な闘争心を鼓舞するだけのような論証なき音楽のライブへ行くと、微動することなく黙して鑑賞する方々に大変多く出会います。ドラムやギターがけたたましくかき鳴らされ、扇情的・挑発的なボーカルが捲し立てる中で、リズムをとることなく、歓声をあげることもなく、一体どのようにしてそのパフォーマンスを楽しんでいるのか疑問に思います。

好きでもない音楽家のライブでも無理にパフォーマーの行為に追従・同調すると、つまらない時間を有意義に過ごす契機を得ることができます。行為的な同調によって、それまで理解することのできなかった似非アーティストが何を何故に表現したいのか分かり易くなるのです。これは『自己がそれに成ることができないものを知ることはできない』といった命題の体験をとおしての実証であり、日常のコミュニケーションにおける「他者を知る」にも援用することができるテクニックです。

上述の説は一見すると行為による意志や情動の操作可能性を謳っているように思われるかもしれませんが、それは早計です。ここでの行為が他者誘因的ではなく自己動因的である点に留意しなくてはなりません。この作られた行為(構造)は意味内容の選択・文脈化するための推測・判断材料であって意志情動の決定因子になっているわけではありません。行為の模倣によって他者を知ることができるかもしれない可能性を得ることができると主張しているのであって、他者を知ることができると述べているわけではありません。操作可能性を論証するには「作った笑顔」と『自然な笑顔』を同等化する証明が必要になりますが、後者は一切の懐疑を排した衝動による情動があるのに対し、前者において発生する一瞬の情動変化は知識による推測の動き(習慣)であり継続性のある無謬の笑顔を意味しているわけではありません。どんなにきらびやかな体裁を整えようと、悲しい時は脱力に支配されているはずです。

またこの局面を行為科学の異文のように受け取られる方がおられるかもしれないので付記しておきますが、ここで取り上げている行為とは行為者による反省的な構造再構成であるので意志・情動の表現として扱うわけにはいきません。この観察される行為は選択項である以前に、これから選択する項目の未内容な確保をも意味しているので、行為科学的な記述原理によって有意味化することはできないことになります。

 

私達の生活空間には「形から入る」という俗語があります。敬虔な芸術家はその安直な経験的命題に目眩がするかもしれません。構造の再配置が意志や情動を形成するといった他律的な主張は自身の作品評価を相対的に求める時には慰めになるでしょうが、制作活動においては夾雑物以外の何ものでもないことでしょう。しかしこのコラムで述べたようにそれは自己を排除した思考否定の意味ばかりがあるわけではないのです。意志先行による意図的な構造再配置は複雑性の拡大を潜在化することによって自己制御的に他者知を産出する知的営為のひとつなのです。

 

2006年4月23日
ayanori[高岡 礼典]
2006_春_SYLLABUS