芸術性理論研究室:
Current
04.16.2006

意志と行為

 

法社会を措定することによって不可解な他者を公的空間へ取り込んでいかなければならなくなった私達は常に意志は行為を制御する第一原理的なものとして要求されます。それに対抗すべく科学や思想が自由意志を反駁しようと様々な決定因子を作り出すのですが、いつも「社会形式」はそれらの声に対して特別に耳をかすこともなく、声が聞こえても聞こえなっかたフリをして平常を送っていきます。法規定による社会概念は普遍的に自己の意志を前提とするので決定操作される「自己なき個体」は包摂することができません。私達が自己ではないものに先行決定されたものだとする仮定は行為事実の全てから価値を排除してしまうので何が起ころうとも当然的に描いてしまうのです。これでは法をもうける理由が見出せなくなってしまいます。ですから「聞こえなっかたフリ」ではなく懐念可能な概念として初めから「聞くことができない」と述べなければならないのかもしれません。社会の構成要素の最小単位は「関係」になるので個的概念は社会形式にとって不問のことのように思われるかもしれませんが、関係が個を前提にしているので社会はいつも消極的に個人を必要とする明確な境界設定のある系なのです。

しかしここで個を前提としているからといって一方向的な無償の愛のようなものまで社会的関係として数えられるわけではありません。他者への干渉は何らかの反応(応答)があって観察可能な事実(出来事)となり社会化されます。この一次社会(ダイアド)が第三者からの弾劾によって、無限批判可能性の道が開かれて公的社会の要素になるのですが、ここでは意志について論じたいのでそこまでは踏み込みません。

被干渉者がそれを単なる物理現象と人からの作用とを区別するコードはそこに意志が『あるか/ないか』になるので干渉者は常に行為者のみに帰属(内属)する行為理由としての意図を要求されます。それは「散り逝く星々」や「襲いくる自然災害」に対して直接に理由を問うことがないように経験的に自明なことだと思います。自律性を見出せないものに対して社会的アプローチを返したら、それは妄想家です。

ここに社会と個人が相互に環境へと配置される関係ではない論拠があります。両者は共に自身の系によって相手を描くことができないにもかかわらず、相互に相手を前提の必要項にしてしまうということは、それが単純な環境項ではないことを意味します。社会にとって環境に自然空間は不必要ですが個人が位置付けられないわけにはいきません。これは同様に逆も成立します。つまり超越者がいたとして、その者の眼に映る社会の構造は個人であり、個人の構造は社会ということになるのです。両者は相互に自身の系の第一周辺(構造)に相手を配置することによって自己を観察可能態にするのです。

ここで一般的な社会システム論のような記述をしていない理由は当研究室の態度が科学ではなく哲学であることを確認して頂ければよいと思います。科学的なシステム論では個人を単語化した意味論を社会として描写するでしょうが、心的システムを探求の筆頭対象としている当研究室において、個人に文脈性を認めないわけにはいきません。そのため「個人の構造は社会である」という命題を成立させなければならないのです。

 

上述のように私達が社会形式に賛同し参加しようと試みる際に意志と行為を同義的に扱うことによって、自己を社会空間へと現前化(プレゼンテーション)しなければならない思想的な当為理由があるのですが、またそれによって「他者」を正しく素描できなくなる理由もあります。「意志と行為が連動する」という命題は社会参加者の思想であって、原的な様相を言い当てているわけではありません。意志と行為はシノニムでもなく、アントニムでもないものであり、カテゴリーを異にする乖離的な関係であるといった素朴な確認をここで論理的にではなく、体験してみたいと思います。

1:

今まさにマウスを握る自身の利き手に注目してみます。その利き手を操作する意志や力の全てを脱して微動させることなく暫く凝視してみます。ここでは操作可能なものに対して支配権を保留にしたまま関心をよせ続けるといったディレンマを感じて頂くことが重要になります。この段階で既に意志と行為の分化を知ることができます。

 

2:

次にその利き手を1cmだけ任意の方向へ動かそうと思った後に動かしてみます。ここで運動の開始点と終止点を強く思うことにより意志による行為支配の原的様相を知ることができます。

 

3:

「2」を数回繰り返した後に動かす意志を抱いたまま、再度動きを止めてみます。動かそうと強く思い続け、利き手が動き始める瞬間まで意志の強度を上げていきます。そして腕が動き始めようとした刹那に運動の意志もしくは運動のみを全部捨ててみます。その際に利き手が動くか動かないかは問題ではありません。

「2」と「3」の体験を通して知らなければならない点は「1」によって分化された意志と行為が再会し相互浸透化する瞬間のシークエンス自体です。私達は日常当然のように腕や足を操作しようと思って様々な運動を行いますが、その間にある非対称的な複合性を経験できても理論的に一体何が起きているのか知ることができないといった詳述しがたいアポリアをこの体験によって確認することができると思います。

 

『意志が行為へと近づく時、相互に巻き込み巻き込まれつつも背反しあう得体の知れない質的飛躍は本来的に不可知であるが、既知のものとして扱わなければならない』私達が現在参加している社会形式で採択されているこの基本規範とは、暴力的な誤謬の強制でしかないのです。

 

2006年4月16日
ayanori[高岡 礼典]
2006_春_SYLLABUS