芸術性理論研究室:
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03.14.2008

ふるえる唇に口づける

 

きっと、単線で塞ぎあう口づけよりも、明滅的行為の果てに重ねあう口づけのほうが、相愛強度を深化させるはずです。行為の遮りが多重文脈を構成する故に結節度を増大するという説明は、通俗的にならば通用するでしょうが、理解は相愛の強度を充足するとは限らないので、このコラムでは“ vibration ”による畏れを導入し、自己保存に努めます。

前回のコラム「振動について」で確保しておいたように、本来不可知であるはずの自重(ボリューム)を投げ出してくる振動接触は「振動圧殺」を経ることにより、有生の他者を知ると同時に、自己感応をも創発する『畏れ』の原初的場面のひとつになります。そのため「ふるえる唇」への口づけは「自己知へのふるえ」となり、自己同化へとミスリードします。祈りの果てに辿り着く逢瀬の夜に、多くの恋人達が邂逅する相手とは、目的遂行的な彼/彼女ではなく、現出不可能な自己存在性なのです。意図的行為に付随して不意に自己は、その存在性を主張し始めるために、口づけ場面における他者延長と性的感覚内容へと自己は全体的に引きずり込まれてしまいます。口づけの前場面において他者と性的感覚の形式枠はプロジェクトされているので、区別を守り続けるのですが、場面と操作の超越性が共通するそれらは未分化の誤読に犠牲となり、感覚内容の強度の一部を担わされてしまいます。

ここで重要な点は、「到達可能な他者」ではなく「把持不可能な自己」までもが性的感覚に構成要素として含まれてしまう過程にあります。性的感覚が「性的感覚」と呼ばれるためにはオルガスムの予科であるプレ・エクスタシスとしての形容・位置付けが行なわなければならないのですが、その段階で自己が超越的に放擲されるは、汎神論の空想へと誘うと同時に、自己の境界解除という未知の恐怖がうまれ、『畏れ』が構成されます。

口づけや愛撫が性的感覚を去来させる時、私達は他者を感じ取っているのではなく、自他の同一構造による生殖器へと向かう指示詞に従いながら相愛を制作しているのです。オルガスムと同様に性的感覚も厳密には『感覚』ではなく、制作的な知的営為のひとつです。口づけも愛撫も、単なる肌の接触でしかなく、日常社会の中にたびたびあることです。しかし、私達は他者との接触の際に、無差別的に性的感覚を創発することなどなく、それは知的制御の下に、限られた場所、限られた時間、限られた誰かとのみ、充足されていきます。性的感覚とは『畏れ』の誤読によらなければ感じ取れない作品であり、『私と私が愛する人』にのみ帰属する著作物なのです。

 

2008年3月14日
ayanori [高岡 礼典]
2008.冬.SYLLABUS