芸術性理論研究室:
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03.07.2008

振動について

 

『恐怖や不安』に震える時、私達は小刻みに揺れ動く自身の体が理解できなくなり、必死に喪失を食い止めようとして、両手で自分を抱きしめます。振動体は観察者に対して視覚的輪郭だけではなく、触覚的境界・肌理までをも不明確にしてしまうためです。対象からの『恐怖や不安』を「震え」として表現する時、次場面の自己抱擁が自己のボリュームの知へと誘ってしまうので、『恐怖や不安』は多くの場合、『畏れ』と不即不離の位置関係にあるといえます。

物の強度は両手、もしくは「親指と四本の指」によるバインドで推し量ることが可能ですが、物のボリュームは「振動圧殺」によらなければ知ることができません。構成要素間の結節関係は「関係の関係」を構成するので、個物の表面へと「にじみ出る」ことが可能である点に対して、全構成要素をひとつひとつ数え上げていかなくてはならないボリュームは不可侵であるため直接的に知へと辿り着けないためです。

たとえば、任意の素材でつくられた一辺が10cmの立方体があるとします。誰もが初等数学で習う公式を用いて1000cm³という体積を求められると思います。しかし「1000cm³」という文字は、経験的意味内容を含みえない外延でしかなく、純概念の域を超え出ることがありません。以前のコラムで繰り返し述べていますが、この「1000cm³」の立方体を分解して、「500cm³+500cm³」「100cm³+100cm³+100cm³………」のように変換しても、当初の「一辺10cmの立方体」の体積を知覚から認識へと導いたことにはならず、「1000cm³」というボリュームは、どこまでも「1000cm³」自体を経験契機にしなければ知り得ません。

ここで私達は他者への説明を優先するあまり、自己理解をお座なりにしてしまわないように、上述している振動を利用して、個物そのものへと越権することになります。

触覚の含意性による特殊性は、触れるだけで不可知であるボリュームを認識へとミスリードさせる『』を内属させている点にあるのですが、不確かな誤読の偽法でしかないので、確定判断へと近づけさせるには、別個にもうひとつトリックを挿入させる必要があります。体験者から対象へと臨む『』は勝手な働きかけ・能動になるので、そこを打ち消してもらうために、無口な個物対象に『』へ向かって喋ってもらうことにします。対象を激しく揺さぶり動かし、触知に起伏の文脈をつくります。ニュートン物理学を動的に現象化することによって、対象のボリューム・自重告白が始まります。しかし触覚は点的与件を積極的には認識できないので、振動を感じ取っている場面は、形式・枠組みなき意味の確保・構成しかできないはずです。私達が振動体の動きに抗うように個物を手中に封じ込めようとする場面とは、振動文脈を"0"へと無限接近させることによる単語制作に他なりません。振動という力動的関係は、「揺れ動き」の干渉によって、ボリュームに関する意味内容を充足していくのですが、「動き」を知ることはできても、「動き」を確定認識できない逆説を突破するために、「振動と静」の平衡点を目指して「振動圧殺」を実行することになります。

経験科学的に見れば、物を構成する原子・分子は激しい動体として形容されるので、私達を取り巻く自然環境には、ひとつも静物が存在しないことになります。しかし認識域には「動き」を超えた現象が創発し(*)、それがなければ認識活動も、おそらく社会活動すら継続できません。日常を満たす"スティル"ひとつですら、研究の余剰は残されています。

(*)仮に、閾が無限であったとしても。

 

2008年3月7日
ayanori [高岡 礼典]
2008.冬.SYLLABUS