芸術性理論研究室:
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02.26.2009
METAFORCE ICONOCLASM VOLUME.4-4.5
酔いについて
 

経過を描けなくなってしまうほどのながい抱擁(*)。自重を失ってしまう水面上での浮遊(**)。私達の日常には簡易的に脱自を感覚可能な契機が様々あります。極限まで外圧が低減した状態は、踏み止まる「私」を没化して、果てしなく自己を延長させていきます。果てのない無限は単位を意味しないので、認識把持から認識論自体を失いかけてしまい、超越を誤読します。その超越を引き起こす代表的な偽薬として「酒」という飲み物があげられると思います。それは、西洋思想の洗礼を免れ、性愛感覚がなく、泳げない人でも、半強制的に脱自へと解き放ちます。キリスト教におけるワイン、神道におけるお神酒等、なぜ多くの宗教文化圏で、酒は聖なるものの扱いを受けてきたのでしょうか。その主成分であるアルコールがもつ理科学的な消毒作用を経験的に直知していたからでしょうか。大量に飲み続けることによる情緒や行動を非制御化してしまう効用だけに着目すると、むしろ酒は邪へと配置されるべきもののように思えます。もちろん、過去の歴史から現行社会へと至るまで、飲酒や酒造は多くの規制が設けられ、麻薬的な扱いを行なう文化もあるわけなのですが、聖/邪に関係なく、畏れの対象であることには変わりないように見受けられます。そこで、このコラムでは、酒の効用による脱自の形而上学を整理しておきたいと思います。

(*)拙論[2008]:コラム『せめて、腕の中で、』等。
(**)拙論[2007]:コラム『脱移動の偽法』等。

酒によって惹起される酔いの感覚は、全身麻酔のように一気に落ちるわけではなく、幅ひろい程度があります。ほろ酔いから泥酔まで、感覚は無限・連続的に変化して、いつの間にか「記憶をなくす」偽超越へと至ります。通常ならば、知覚・認識喪失から覚醒する可逆の場面に、その特殊さを見出すかもしれませんが、それは眠りからの覚醒と大差なく、拘泥すべき点であるようには思えません。飲酒による酔いの面白さは、ほろ酔い以降に感じられる、脱自しかけていく過程にあります。

酒に酔い始める「ほてり」の知覚は、自己客体化・二重化を意味し、やがて触覚・痛覚が麻痺していきます。普段なら痛みを感じてしまう衝突も難がなくなり、肌理と強度を失います。物のボリューム取得すら危うくなりかけた時に堕落する「私」への自覚が生き残っていた場合、それは自己を保持したまま境界開放を意味する前脱自となり、周界描写が再構成されていきます。

分かりにくければ、酔ったまま屋外へ出てみると直感できるかもしれません。平常では暗黙裡に理解している自己の肌表面に関する位置価や挙動範囲を尺度として行動域の配置構成を概念化しているので、距離の把握が可能かもしれませんが、酒に酔う者にとってそれは不可能に等しく、自他浸透の世界観を描けるはずです。そこで重要な役目を眼が担います。触覚に比べ視覚は酔いにくいので、上述の自覚が眼に宿っていると、取り残された自己が世界に『広大さ』を描き与えることでしょう。見なれた景色も「私」を圧殺しきることなく、矮小な眼は浸透化している肌に引きずられ、世界へと馳せ延びていくことと思います。

溶け込む肌は超越を意味し、それを見る眼は自己を意味し、この脱自しかけた階梯描写は“ transzendental ”のアナザーバージョンとなり、そのため酒は畏れられてきたと考えられます。そして「溶け込む肌」は現在系である触覚に、日常における自己直知を教え、否定によって私達はまたひとつ肯定域をひろげることでしょう。

 

2009年2月26日
ayanori [高岡 礼典]
SYLLABUS_2008