芸術性理論研究室:
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07.28.2007

脱移動の偽法

 

大人しくしている猫の足もとに敷いてあるシーツ等を不意にスライドさせたり、上方へと持ち上げたりすると、悪戯した本人のほうが驚いてしまうくらいのパニック状態へとおちいり、飛んで逃げていくことでしょう。それは私達の見当識から認識の基盤を担う大地という地(面)の触知が、普段どんなに意識の対象になっていなくとも、延長性を利用して自己を成り立たせている第一的な含意体であるためです。恐怖の筆頭に地震が揚げられる理由もそのためです。地(面)がなければ自己概念も出会いもままならなくなってしまいます。

有限の公理は地(面)の全知を禁止するために私達は質差以上に非対称的な関係を構成しています。その対応性が不完全であるにもかかわらず、なぜ歩行場面を「私が歩く・私が移動する」と描写し、「私の周りの世界が移動する」とは記述しないのでしょうか。このコラムでは移動を脱化する体験をとおして被主体性を学びたいと思います。

もしも人類が疲労を感じない存在ならば、容易に脱移動の記述ができるかもしれませんが、事実はそれに反しているので、ここで私達は外出する必要があります。北半球にお住まいの方ならば、季節はちょうど夏になるので、プールや海水浴へと出かけてみましょう。裸になり首もとまで水の中に浸ってみます。最初は水流の揺らぎがあり、水温と体温との恒常関係が不安定なので、体表面の大部分が何かを感じ、触覚器官の過剰な反応に震えてしまうかもしれません。この段階で私達は強く自己の存在を確信することでしょう。金属等を素材にして作られた拘束具とは異なり、水による包囲は、非選択項(水)が選択項(自己)以上に柔らかく明確性に欠けてしまい、認識原理では抽象しにくいので、被験者は主体性を現象するはずです。相対的であるにしろ、水圧の劣位によって、私達は『ここからここまでが私である』という確かな境界記述が、自動詞の能動性を崩すことなく可能となり、その『確信』を謳いたくなってしまうのです。

しかしながら、水中での体験はある条件を満たすと、触覚感覚特有の脱境界性を全体的に現象化します。愛撫や抱擁と同様に、なるべく摩擦のない平衡状態をつくればよいはずです。そこで浅瀬から深みへと進み、水中に浮いてみます。背泳ぎのフォームをとれば、いつまでも難なく浮き続けることができるでしょう。この際に視覚は超越への望みに反してしまうので、なるべくなら目は閉じたほうが良いと思います。浮き上がったばかりでは、地(面)のない状況にただ驚くばかりかもしれませんが、そのまま静かに浮遊し続けると、水温や水の肌理に平衡感を形成し始めます。地(面)のない状況とは自重を支えることからの解放を意味するので、まず被験者はボリューム的に自己内容を見失い、次に『指先』から『腕全体』を、『つま先』から『足全体』を、『背面』から『胴体/頭部』をシェーマ的に喪失してしまいます。これは単なる自己の超越による自/他の抹消ではなく、自己の意識を保持したままの自己の点化という認識しがたい現象を意味します。そのため被験者は恐怖に苛まれ、境界を取り戻そうとして、もがき、くねらせ、目を見開いてしまうかもしれません。

筐体もボリュームもない被験者は、自己把持ができないため、目にうつる映像に対し、主客関係を構成することができず、茫然自失と見入るばかりかもしれませんが、ここで第二者にお願いして、静かに水流を起こしてもらい、水面を浮遊させてもらいます。移動しているのは紛れもなく「この私」であるにもかかわらず、自己位置のない被験者は流れていくかのように見える雲や星星に主体性を観てしまい、自己を脱移動化してしまうはずです。留意すべきは、点化を純粋に押し進めた自己の視点化は、観察的には受動態でありながら、自動詞の一切を概念的に喪失しているために、自己を絶対化してしまうという点です。そしてそれは超越者とは全能ではなく無能であることを意味しています。

最後に被験者は完全なる自由は不自由であることを知るに至り、本当の自由を得ようとして、また不自由な大地へと戻っていくことでしょう。自らの足を用いて。

 

2007年7月28日
ayanori [高岡 礼典]
2007.夏.SYLLABUS