芸術性理論研究室:
Current
02.21.2008

半球性・接点について

 

美大・芸大の受験生らが、研究所(予備校)の諸段階で徹底して叩き込まれる態度のひとつに、平面構成と立体構成の観察可能域の区別があります。インスタレーションのような視野拡散的な作品ではなく、鑑賞者の手に取られうる視野集束的なオブジェは、どんなに巧みな手つきを持つ画家であろうと、絵筆を握っている際と同様の態度では、即座に対応・制作できるとは限りません。二次元の平面作品に許されている観察域は視界180ºの半球になるのですが、二次元であるが故に『正面』を指示するので、作家と絵は正対峙の中に普遍的な相互投影関係を維持します。画家は自己の制作視点のみを確認できれば、鑑賞者の目を把握できるアームチェア・ディテクティブでいられます。しかし、オブジェを制作する造形作家は安楽椅子にくつろいでなどいられません。全方位へと延長していくオブジェは、360ºから鑑賞者の視線の重圧を受け、輪郭問題によって、融けかかったオブラートのような境界を与えられ、非普遍的な自己を構成しています。立体作品に便宜的な『正面』を設けたとしても、レリーフでもない限りは、立体である理由がなくなり、意味がありません。その作品がシンメトリックに構成されていようと、オブジェは観察視点を変えるごとに、連続して姿を変化させ、視点aと同一の姿を見せる視点nなどないに等しく、造形作家はあらゆる角度から ─もしくは角度から角度への─ 美の検証にあくせくすることになります。

三次元からの二次元は、Z軸の優位によって普遍の圧力を受けるのですが、相互が三次元の場合、球体の完全性によって定点が喪失し、お互いがお互いをすり抜け合うことになります。背後という可能存在が、常に視覚環境を脅かし、接触を禁止する触穢の制度・思想が助力することにより、手は理不尽に自由を拘束され、移動という触覚機能のひとつを利用して、視覚環境を完全化へ近づけようと努めることになります。鑑賞者は視覚環境と触覚環境間にある相互超越による二重の複雑性を「うごきまわる」観察によって縮減し、理解の帰結へと至る努力を行ないます。

しかし、それを可能にしているコンテクスト理論は非対称的な流転になるので、ひとつの「まわりこみ」は新しいひとつの背後を産み孕み、理解の深化は無限後退をも意味することになります。ここに鑑賞を永続化するテクニックが潜んでいるのですが、多くの場合、この努力の営みをとおして、鑑賞者は絶対不可侵の(面)を知り、無力の必要性を学びます。

作品が作品を支え自立させている『設置面』は観察域から隔絶された畏れとして保存されています。展示場面において、それは鑑賞者だけではなく、作品(作家)にとっても禁止された領域になり、無でもなければ有でもない特異な(面)を構成しています。『確かにそこに面であるであろう何かがあるだろうが、それを確定的に叙述できない』ディレンマは、概念的なパラドクスへ訴えるリミナリティーとは異なる積極的な意義があります。

触覚(可感)の誤読が可能な構造的な不安は超対象的な畏れとなり、出会いを可能にしている地(面)を有効化しているのです。

 

2008年2月21日
ayanori [高岡 礼典]
2008.冬.SYLLABUS