芸術性理論研究室:
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02.08.2007

地(面)について

 

東京ディズニーリゾートへ行くには、千葉県浦安市にあるJR東日本京葉線の「舞浜駅」で下車する行路が最適です。車やバスなどではなく、電車を利用したほうが夢への策略へ誘われやすいように都市・環境デザインされているためです。そのほうが、ミッキーマウスを苦手とするような方でも、コーヒーカップが笑い、ほうきが舞う麻薬的世界に難なく入り込めることでしょう。そこで背理的に結論へと帰結するために、多くのマスメディアで取り上げられているディズニーの戦略について簡略的に再確認したいと思います。

上述の舞浜駅で降りると、構内のベルが無愛想な反復音ではなく、ディズニーのメロディーへと変わり、プロローグが始まります。しかし駅の外へ出ても、すぐには東京ディズニーランド(以下 TDL)の正面入口には辿り着きません。またその全貌の一部が見えることもありません。TDLと舞浜駅は一線上に並んでいるのではなく、少し横へずれた位置関係にあります。そのためTDLの入口へは大きくカーブを描く、デコレートされた架橋を400mほど歩かなければなりません。それによって『徐々に』TDLが左手から前景化してきます。期待増大を予期したフェイドインによるオリエンテーションは忙殺から解放された者達へは有効に働きます。少しずつ、少しずつ、世界浸透への訓育を経て、入口をくぐる頃には圧倒的な空想劇を受容できるようになっていることでしょう。この技術はアトラクションを予科化するためにも利用され、TDLは「既に信仰している新規信者」を向い入れることに成功します。

そして現れる夢と魔法の世界を私達は素直に楽しむことができるのですが、TDLの世界統一の徹底さはその内容以上に排他的な捨象項の定義にあります。これはデッサンの際にモティーフを描かなくとも、物の影さえ捉えれば「絵」になることと同じです。非日常を実現するには日常を排除すればよいのです。TDL内の世界と外との視覚的往還の遮断から始まり、地下通路を利用しての運搬や従業員移動などといった労働場面をカットして、日本的な慣習を極限まで削除します。TDLではアルコール、焼きそば、おにぎり、自動販売機すらありません。ピクニックや集合写真はごく限られた場所でしか許されていませんし、迷子がいても、デパート等で良く耳にするアナウンスなどありません。カストーディアルが迷子の手を取り、二人で保護者を歩いて捜します。カストーディアルとは清掃兼案内係のことで、普段は「腰を折ることなく」構内の床を掃除しているのですが、このカストーディアルが相手にしている「床」がTDLの世界観を決定付ける要因になっているのです。

アトラクションごとに色が変わる「床」をTDLは細心の注意によって管理します。開館中の床の汚れは、カストーディアルが逐一清掃するのですが、閉館後、TDLの広大な敷地を覆う床はすべて水拭きされ、ハードコートは一定の美を保ち続けます。化学樹脂によってコーティングされた不自然な床は汚濁から解放されることにより、物理的時間をも超越したかのような性を与えられ、あらゆる存在物を止住させます。それによってアトラクションが調整中であろうと、シンデレラ城が修復中で少々みすぼらしくなっていたとしても、遜色なくディズニーの世界観が守られることになります。仮にTDLの床がアスファルトであったり、土や砂利がむき出しのものであったとしたら、現在のブランドイメージはあり得なかったことでしょう。その等級はどこにでもある遊園地と同等のものであったはずです。

 

私達は実在物の存在性を判断・認識する際に、対象内容のみを自体記述しているわけではありません。対象Aを知る際に、対象Aだけを経験していたとするなら、それは「自己と対象Aの世界」もしくは「対象Aの世界内に生きる私」になってしまいます。そのため対象Aの規定を行なうことになるのですが、物の判断はそれだけではまだ不十分です。自己と対象Aがどのような地(面)によって関係化されているのか知らなければ、それが実在物なのか、それとも概念相なのか判断できません。その地(面)が対象への到達の可能性を約束している場合はオブジェとなり、可能性を超えている場合は非実在的な臨在物となります。技術が発達していなかった時代に、空(宇宙)や海底、高き岩山に神話を観た理由もここにあります。

つまり地(面)とは自己と対象の関係を担う相互世界の基盤であり、対象に内属された存在性を存在化し、自己へと(現)前化する接続詞・繋辞なのです。ここではそれを『存在性の定着』と呼ぶことにします。

 

2007年2月8日
ayanori [高岡 礼典]
2007_冬_SYLLABUS