芸術性理論研究室:
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12.12.2007

呼吸・息について

 

むせび泣く嗚咽の声、主旋律をうたい上げる歌唱、耳元での恋人の囁き。それらがもし楽譜的に明文化可能な要素のみで構成され、リスナーは流れていく音符がつくる線形の中でのみ意味内容や情緒を読解しているとするのならば、私達は声によるコミュニケーションの一切に、さほどの魅力を感じ取らなくなるかもしれません。泣き声や歌声、愛の告白は、声と声の間に特別有意味であるとは思えない「ブレス(休符)」が挿入され、つなぎ合うことによって、コンサマトリックな同化への情動変化への契機となっています。日常では表れ出ない呼吸の構造化は『私にしか知りえようのないもの』の開示に似ているので、他者からのエクスタシスを誤読しやすくなるためです。

呼吸は自律運動のひとつでありながら、ある程度の操作が可能な他律性を併せ持っています。自由の領域へ片足を入れてしまった人類にとって、呼吸は悪戯に一時停止できる準支配項として位置付けられています。凍り付く冬の空気による鼻孔の痛さや過度な運動等による口内の渇き等により、「呼吸している自己」に気付いた者は苦しみとその緩和の反復に、もしくは入り込み、また体外へと解放されいく気体に自己の先行性をひとつ教わることになります。

以前のレポート『肌と肌理』で訂正したように、人類が現在の身体構造を大きく変えなければ、環境が空想的な変化を果たしたとしても「舌・口内構造」のように自体的に自己知へと導くであろう可能項を私達は占有しているのですが、ここでその筆頭に「呼吸」を布置しておきたいと考えます。たとえ呼吸というシークエンス全体を自覚できなくとも、少なくとも「息」は自己触知の含意体として一般期待が可能なはずです。

そしてこの自律性によって、他者のブレスを聴いた時、聴くとはなく聴いていた自己の呼吸音、自己を観てしまい、心うごかされてしまう所以が守られます。喘ぎや吐息は社会的な相互作用において、積極的な役割を与えられていないかもしれませんが、ブレスはモノラルであろうと他者へと自己へと延長性を創発させる特殊で重要な音のひとつです。そのため半強制的に関心操作ができるので、ひとつの溜め息で他者の同情と不快を作り出す道具になってしまうのです。

古代ギリシャのアナクシメネスは吐き出す息のあたたかさや冷たさに、生命という普遍や万物のアルケー(原理/始源)を観ていたのですが、このコラムでは呼吸・息が自己の予料であるが故にブレスが社会というエクスタシスを担い、普遍域へと拡張・ミスリードしていくと設定しておきたいと思います。

 

この形而上学はやがて、交感へとつながり、自己へと再帰していくことでしょう。

 

2007年12月12日
ayanori [高岡 礼典]
2007.秋.SYLLABUS
 
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