芸術性理論研究室:
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12.11.2008
METAFORCE ICONOCLASM VOLUME.4-3.7
掻痒について
 

くすぐられることによる笑い」が目的や意味を撥ね除けるように、肌を用いての触覚内容には、認識困難なものが多々あります。「掻痒・かゆみ」もそのひとつです。夏の虫や化学繊維によるアレルギー等、様々な条件によって私達は掻痒を感じ取ります。皮膚は『むずむず』や『ちくちく』といった擬態語を指示する与件を創発し、反射的に「掻く」行為を促します。それによって低度の痛みをつくり、かゆみを緩和させる(誤摩化す)策なのですが、「かゆみ」という災いは、なぜ「痛み」という災いを要求するのでしょうか。そもそも進化の過程で、早急な解決を要しない災い・少々の炎症程度のものに、痛みではなく『かゆみ』という中途半端なしつこさを与件から対応行為の間に設けたことが、どれだけ生存可能の拡張と向上に役立っているのでしょうか。「かゆみ」によって手を伸ばし、災いの位置を特定はできるのですが、掻く行為は肌を必要以上に摩擦するので、皮膚を傷付けてしまう上に、「かゆみ」そのものを取り除きはしないので、古代ギリシャで称揚された手術の定義には含まれません。危険のサインならば、痛みのように、「掻く」ではなく、原初的な「手当て」を要求する感覚与件を用意すべきだったように思えます。

しかし、『掻痒』から「掻く」までの知覚・行為過程は災いだけのものとも限りません。私が十代の頃、理由のない掻痒が陰部を襲ったことがあります。それは包皮へ自慰以上の摩擦を加える契機となり、おのずと先端部分を覆う皮膚は伸長を遂げ、亀頭を取り出す、外部性成熟へと導く助力になりました。おそらく「理由のない掻痒」がなければ、包皮に執着することなく、外部性器は幼児形態のまま内部成熟していたことでしょう。ここで重要な点は、掻痒の理由や副次的な効用ではなく、それによって自己の身体構造の表面部分に手を伸ばす着目場面それ自体にあります。

かゆみ自体は肌表面に発生する付着対象なき触覚自体になります。これは連続文脈を公理とする現在系の触覚器官にとって、理解しがたい特殊な感覚のひとつです。そのため「手」という二次対象を要求し、「掻く」という表面遷移を設け、「理解」をかたち作っていると考えられます。これは触覚系のみによる境界確保・再構成になります。痛みの場合は、境界問題にとどまらない、システム瓦解の前兆になる場合が多いので、触覚的解決は得策にはなりませんが、掻痒は肌だけにとどまる「早急な解決を要しない災い」なので、システムはこの余幅を利用して、自律的な自己言及場面を挿入できます。背中がかゆくて手を伸ばす時、私達は忘れてしまった身体図式、否、シェーマを取り戻し、自己直知に役立てています。「掻く」という災いによって、痛みとともに『快』をも創発する理由は、自虐的な境界再構成に自傷にも似た脱自を誤読しているためと思想可能です。

 

一生懸命に、後ろ足を使って「後頭部」を掻いている猫の心を「かゆみ」を感じない生き物は理解できないことでしょう。そして、原初的な芸術性にふるえる懐胎者が、謂れのない「妊娠性掻痒」にもだえる姿は、自尊の究極を意味することでしょう。

 

2008年12月11日
ayanori [高岡 礼典]
SYLLABUS_2008