芸術性理論研究室:
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03.28.2007

反目的論的な感覚情報について

 

その昔、目的論を存在論に含めてしまった西洋学知の歴史的真理は俗語化することによって、逆に現代の学術域をおかし続ける桎梏になっています。哲学(理論)と思想(主義)の区別を不必要にする学派の中には、未だに全ての構成要素は何らかの意図的な目的を実現するためにそこにあると信じてやまない方々が居られます(*)。目的論の無効を知る人文・芸術の者らにとって経験科学の言説は時に宗教的真理にすら聴こえてしまいます。このコラムでは私達が日常を送る際に誰もが利用するであろう感覚情報の中にも単純には目的性を見出せないものがあることを指摘しておきたいと思います。

(*)予見開示が物理的営為の原理ならば、私達は何のために間違いをおかし、それに気付き気付かず過ごしていく可能性に不安を覚えたりするのでしょうか。ラプラスのデーモンは自然災害や事故による不遇の死を避けきれずに、臨まなければならないのでしょうか。

生物学的倫理観が事実上スタンダード化している現代では、一般に外部器官と称されるものらが創発する情報は、その感覚主体の行為規範を基礎付ける利己的コードの与件として考えられていると思います。確かにそれを頼りにして私達は死を躱し、生を獲得しています。痛みは死を知らせ、性感は生を示します。血液が赤く、その赤色を劇的に前景化してしまう理由や、多くのヘテロセクシャルが異性の体型にこだわる理由も、すべてそこから説明できそうに思えます。『おいしさ/まずさ』や『芳香/悪臭』も生死の比喩であるかのようです。しかし、果たして私達は感覚器官が創ったものすべてを情報化し、次回の行為へとフィードバックするかのように役立てているのでしょうか。

 

そこで音量を最大に設定してヘッドホンを装着し、音楽再生のボタンを押してみます。静かな住宅街にあるような家屋の自室でそのようなことを突然に試みたなら、多くの方々が『うるさく』感じ、ボリュームを下げることでしょう。爆音を愛好する方であろうとも、難聴でない限りは、何らかの情動変化があるはずです。その逆に交通量の多い市街地や電車の中では部屋で聞いている程度の音量では物足りなく感じてしまいます。聴覚は環境との相対的な関係によって、その中心軸を自由に変えることができるものなのですが、どのような状況下におかれようとも「騒音批判」を免れることができません。本来、聴覚情報は純粋な環境知のはずであり、音は直接的に生死に関係ないもののはずです。にもかかわらず私達は「騒音」などといった価値コードを立ち上げてしまいます。音の強度によって身体構造や細胞組織が圧殺される理由を見出せたとしても、その尺度は不必要なまでに低く設定されすぎているように思えます。この局面を自然災害音などからくる進化論的な音のホメオスタシスとして反論するのならば、愛好する音楽家の曲をPA最大で聴かせられる際の、それでも纏つく『苦痛』の所以を説明する必要があるはずです。

 

さらに私達の感覚情報が認識論も存在論も超える自律的で反目的論な創造系であることを示す決定的な傍証が触覚の中に潜んでいます。それが『くすぐったい』という感覚です。神経系が集中している首筋や足の付根のような、普段あまり積極的に情報収集のために使用していない箇所へ蠕動的な刺激をやさしく与えれば、くすぐったく感じ、笑い出してしまいます。『くすぐったい』は明らかに不快感であるにもかかわらず、笑いという比較的肯定的な表現に対応しています。『くすぐったい』が生死に関係しているのならば、「笑う」必要などないことでしょうし、そもそもの初めから『くすぐったい』といった感覚内容は『皮膚の上で何かが蠢いている』と思う程度でよく、特化する理由などないものです。笑いは古来より無秩序認識の表現とその浄化回復の担体であるかのように論述されてきました。しかし「くすぐり」による笑いは苦笑でも嘲笑めいてもなく、喜劇的な素直な笑いであり、不快とは反目する矛盾表現になります。このパラドクスは『くすぐったい』からさらに理由を遠ざけてしまいます。なぜ『くすぐったい』と感じてしまうのでしょうか。なぜ不快感を嬉々として笑わなければならないのでしょうか。ここに新しいアイディアを必要とする未開拓な余剰域があります。

 

2007年3月28日
ayanori [高岡 礼典]
2007_冬_SYLLABUS