芸術性理論研究室:
Current
10.13.2006

自己の完全性について

 

選択原理によってオペレートする西洋論理は行為者を不完全な存在として描きます。なぜなら私達は同一のカテゴリーに含まれる複数の行為を同時に実行することができない択一者であるためです。そしてこの多様性を単一項へと縮減する存在者は社会化によって更に劣化を受けることになります。どんなに権威ある会社の取締役や芸術家であったとしてもカフェやショップ、電車やバスの中では単なるひとりの客でしかありません。関係のコンセンサスが没個性化される場において一方向的で理不尽な命令をわめき散らしたり、断りなく絵具をまき散らすわけにはいきません。人は属する空間と相対的にパーソナリティーを再構成しなければ社会活動を不可能としてしまうリキッドな存在なのです。これは中世キリスト教思想から実存主義やシステム論を貫いて現代においてもなお首肯され続けているアプリケーションのひとつです。以前サルトルが「自己欺瞞(*)」として表したのはこの局面全体を指しています。私達は他者だけではなく自ら自己に対しても嘘をつき請け負っていかなければなりません。

(*)J-P・サルトル[1943]「存在と無」上(松浪信三郎訳)人文書院1956-1960;1999 114頁以下、第一部第二章以下。

しかしこの綿々と受け継がれてきた選択原理を論拠にして「本当の自分なんかない」という命題を掲げるのは早計になります。それは形式と内容の区別がない短慮な判断です。そのようなものに慰められたりペシミスティックになる必要はありません。確かに自己自体を構成する素因は脆弱で虚ろです。それがどんなに正しいと思っても閉じた答えは必ず誰かに反駁・反証されてしまいます。私達の特殊性が真理把持を絶対的に禁止しているためです。知識や思惟内容がもし固定的ならば無力を超えることができるかもしれませんが、それでは知的存在を意味しなくなってしまいます。それが有機的なものであるために様々な経験や時を感じることが可能になっているのです。そしてそれに気付くことができたのならば、それでも自己の同一性を保たせている自己形式についても知らなくてはなりません。

細胞組織が入れ替わっても前場面の自己と関係づけ「同一者である」と言わしめている何かは観察者の記述範囲を超えたものです。身体構造の循環現象や昆虫のメタモルフォーゼをどんなに忠実に叙述してみても個体性を維持させているものは知覚認知域に表れることがありません。これは『自己』の問題についても同様で、「思うこと」を記述してあれこれ批判・反省することはできますが、知的成長や変化の全体をとおして「思うこと」を「思わしめている」ものは決して姿を表すことがありません。それが千変していく自己内容を産出し包み込む自己形式・システム・自我になります(*)。これは静的という形容を排除しないという意味において「本当の自分」といった俗語に妥当しうる原概念なのです。

(*)拙論[2006]『視点の単一性について

 

私達は行為者であることを捨てられないがために完全な存在ではありません。しかしそれは確かな自己がないことの証左にはならないものです。それがなければ私達は自己の生のリアルすら感じとれないはずなのです。

自我(視点)は他者からの言及を許さないと同時に自己に対してもその到達の可能性を許しません。自己言及は意味をなさないためです。しかし私達は背理的にそこへ近づいていくことはできます。それが無限接近可能ならばその有機的文脈性によって決して無意味ではないことになります。そのため自己への憧憬は確かな生を約束意味し、これからも否定できない規範・鍵概念のひとつであり続けるのです。

 

2006年10月13日
ayanori [高岡 礼典]
2006_秋_SYLLABUS