芸術性理論研究室:
Current
09.30.2007

無効な批評語

 

おそらく研究至上にある方々は、哲学書の類を読みこなせていません。応用という制作力・読解力なくして、人は未知の対象を、そこから理解することができず、「何が新しく、何がラディカルなのか」読み取れないためです。既知のものへ当てはめた未知は、最早未知自体ではなく、既知の異文でしかありません。教養は必ずしも独自性を知るための必要条件ではないということです。そこで訓詁学者や衒学者らと出会うと、「ひとつ覚えたら、ひとつを忘れてしまう」かのような振る舞いに落胆してしまいます。「あなたは一体、何のためにそれを研究しているのですか」と揶揄と混乱で閉口してしまう場面は、若い学生の方々のほうが多く経験していることでしょう。

たとえばインターネットを「新しい技術・道具」として受け取ってしまった世代の方々は、無理解・無自問が「無礼」として顕著に表れることが多いと思います。それがその方々達にとって、聞き慣れない名称であったとしても、あるいは、顔の見えない匿名関係であったとしても、「ネット」は『人と人の社会』であり、「メール」は『手紙』であり、「BBS」は『筆談』であることに変わりなどないにもかかわらず、『手紙の書き方』や『初対面のアプローチ』がままならないことは、裏切るほうが稀であるという状況のはずです。そのような方とは「初めから世界中のすべての人々があなたを知っているわけではなく、あなたがあなたの位置・ポストを維持できるのは、あなたを知っている人が集まる狭いグループの中だけのこと」と教え諭す手順を踏まなければ、人と人とのコミュニケーションは行なえないように思えます。がしかし、いつまでも初歩的なミスをおかしてしまう姿を見てしまうと、価値・意味概念なく、子供のように行為だけを真似て何十年も生きてきたのかと思えてしまい、会話の行方に徒労が予測でき、そんな気も消えてしまいます。

研究室の外へ一歩出たら、すべて忘れてしまうかのような行為即行為者らによる良くある愚行例は批評文の中にあります。理論をお座なりにしている学問分野ならともかく、西洋思想における観念論や、それに近似したものを専門にしている研究者ならならば、絶対に使用できない言葉・論法があるのですが、それを軽々しく用いている様に遭遇すると、この上ない脱力感に打ちのめされてしまいます。

 

有限性を公理にした場合、自己完結批判はあり得ません。したがって「ひとりよがり」「妄語」などといった言葉は使えません。難解・生硬であるが故の批判は論外になります。商業家にとってお馴染みの倫理観の大半が哲学的・本来的には無効なのです。自己中心批判は、その批判を投げかける者の自己中心性との相克により、批判者を絶対化します。気付かないパラドクスは自己肯定永続の力として働くためです。そのため「気付かせなければならない場面」は「手遅れ」であることが多く、「聴く耳」も「他者を知る力・知ろうとする力」もない頑固者の独壇場となってしまいます。当然、自己を絶対化しているので、議論などといった概念がなく、不明な点を確認しあうなどといったこともなく、どこをどのように理解したのか見当もつかないコメントを返してくるので、会話の成立などあり得ません。

この問題が最悪であるといえるのは、その批判者らが芸術に関わっているにもかかわらず、安易な「自己完結批判」は芸術否定と同義であることに気付いていないという点にあります。「『術語や造語が分かりにくい』が批判理由になるのならば、あなたが毎日のように制作している美術作品の外延は、どこにどのように存在するのですか」と、わざわざ反問しなければならないほどに、稚拙極まりない者らによって人文・芸術は溢れ返っています。

 

もしも即戦的に教育や学問の制度に想いを馳せたいのならば、学生や子供達ではなく、教授や講師陣を育成・訓育する施設を用意する必要があるでしょう。その「絶対化された自己矛盾」を突き崩すアイディアとともに。

 

2007年9月30日
ayanori [高岡 礼典]
QR
2007.夏.SYLLABUS