「それ」と『これ』の区別を行わないような自己の認識理論をおざなりにしたまま無節操に言葉を並べ連ねるだけの芸術家や評論家は判断や表現のメソッドを見失うと安易に「カオス/ランダム」といった不確定な概念に身を任せて事を済ませようとします。抽象的な態度をとる者は何を捨象しているのか無関心なことが多く、自己のプレゼンテーションができないため、今も昔も「自己完結」と揶揄され等閑に付されます。
カオス(混沌)とは「荘子」の冒頭に出てくるような未分化な等質状態を意味し、またランダムとは時系列における個々の構成要素が指数関数によって線形化できないものを意味します。ここで重要なことは両者とも無限定性であるということです。カオスの外部に何かあるとするのならば、そのカオスは「カオス」として確定記述されてしまいますし、またランダムが限定されているのならば内挿推理によってf(x)を見出すことが可能になってしまい、それぞれの原定義に違犯してしまいます。
90年代の後半に「複雑系」という学問分野が巷に流布され予測可能性の拡大が謳われることにより本来的な芸術性の向上心が数学系の学問サイドによってへし折られそうになりました。基本的な一般教養を期待できない下々の者をテクノクラートが丸め込もうとする、古来よりある悪しき一例であり、前回のコラム同様に技術・科学至上が陥りやすい初歩的な無反省による論理的なパラドクスです。仮に将来「複雑系」が完成したとしても、私達はそれが何なのか理解できないものを作り出してしまうことになるでしょう。
日常よく口にする「カオス/ランダム」とは閉じた系によって産出された限定的なものであり、決して把握不可能でも予測不可能なものでもありません。もしそれらが支配不可能なそれ自体ならば系の境界が開いてしまい、自己の瓦解現象を知ることになってしまいます。つまり抽象的なテクスチャーやマティエールの製作に勤しむ芸術家は「カオス/ランダム」をコントロールし、不可能を可能にしているわけではなく、制作しているわけでもありません。それはあらかじめコントロール可能なもの(形式)をコントロールする(充足する)ことによって自己を構築するありふれた行為でしかないのです。
私たちが有限の『人類』であるという基本命題は「知っていることしか知らない」ことを意味志向します。この第二命題は自責的な「無知の知」に対して妥当な自己謳歌を示唆する人類的に必要な命題になります。
それは「分からない自己」はいつか理解できる自己になることを約束し、カオスやランダムに包囲されていることは学習して知ることの素朴な喜びの提供を保証しているということです。全知不可能性は自己形式を謳うために必要な条件のひとつなのです。
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