芸術性理論研究室:
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09.20.2005
10.27.2005_Update_頂いたコメントを下段へ追加致しました。[COMMENT]
 

カオスやランダムは認識可能か

 

「それ」と『これ』の区別を行わないような自己の認識理論をおざなりにしたまま無節操に言葉を並べ連ねるだけの芸術家や評論家は判断や表現のメソッドを見失うと安易に「カオス/ランダム」といった不確定な概念に身を任せて事を済ませようとします。抽象的な態度をとる者は何を捨象しているのか無関心なことが多く、自己のプレゼンテーションができないため、今も昔も「自己完結」と揶揄され等閑に付されます。

カオス(混沌)とは「荘子」の冒頭に出てくるような未分化な等質状態を意味し、またランダムとは時系列における個々の構成要素が指数関数によって線形化できないものを意味します。ここで重要なことは両者とも無限定性であるということです。カオスの外部に何かあるとするのならば、そのカオスは「カオス」として確定記述されてしまいますし、またランダムが限定されているのならば内挿推理によってf(x)を見出すことが可能になってしまい、それぞれの原定義に違犯してしまいます。

90年代の後半に「複雑系」という学問分野が巷に流布され予測可能性の拡大が謳われることにより本来的な芸術性の向上心が数学系の学問サイドによってへし折られそうになりました。基本的な一般教養を期待できない下々の者をテクノクラートが丸め込もうとする、古来よりある悪しき一例であり、前回のコラム同様に技術・科学至上が陥りやすい初歩的な無反省による論理的なパラドクスです。仮に将来「複雑系」が完成したとしても、私達はそれが何なのか理解できないものを作り出してしまうことになるでしょう。

日常よく口にする「カオス/ランダム」とは閉じた系によって産出された限定的なものであり、決して把握不可能でも予測不可能なものでもありません。もしそれらが支配不可能なそれ自体ならば系の境界が開いてしまい、自己の瓦解現象を知ることになってしまいます。つまり抽象的なテクスチャーやマティエールの製作に勤しむ芸術家は「カオス/ランダム」をコントロールし、不可能を可能にしているわけではなく、制作しているわけでもありません。それはあらかじめコントロール可能なもの(形式)をコントロールする(充足する)ことによって自己を構築するありふれた行為でしかないのです。

 

私たちが有限の『人類』であるという基本命題は「知っていることしか知らない」ことを意味志向します。この第二命題は自責的な「無知の知」に対して妥当な自己謳歌を示唆する人類的に必要な命題になります。

それは「分からない自己」はいつか理解できる自己になることを約束し、カオスやランダムに包囲されていることは学習して知ることの素朴な喜びの提供を保証しているということです。全知不可能性は自己形式を謳うために必要な条件のひとつなのです。

 

2005年9月20日
ayanori[高岡 礼典]

 

 

 

COMMENTED BY さん

まだお題しか読んでないけど、認識はできそう。

なぜなら、認識できていないとするならば、疑問も生まれないはずだから。

つまり疑問があるということは、認識しているということなんだろうな〜、としろうとなりに考えた結果な訳です。

 

RESPONSE FROM ayanori[高岡 礼典]

私達は『無限性』を形式概念の範囲内で認識していると主張はできると思いますが、それを使い慣れた道具のように(再構成したりして)自在に操ることができるわけではありません
ここで私が述べている『認識』とは形式知と充足知を共に含むものという意です。

だから"ま さん"の「疑問」という概念は消極的に「認識している」と主張はできますが、ここで私が取り上げているような積極性はないと思います。

 

COMMENTED BY さん

なるほど、すべてを理解出来たわけではないですが、認識にはどうも二つあるようだということはわかりました。

ITの世界にはソリューションって言葉がありまして、個人的に用語自体は嫌いですがよく使います。

問題のカオスから点を特定し、点同士の前後関係を解明、時系列に並べて順次解決策いわゆるソリューション提案とするのが一般的です。

もともと自然科学に代表される学問は、森羅万象を知りたいという人間の探求心が生んだ財産であります。しかしながら現代社会において、そのミッションは社会で応用できる形にも再構成できるようリクエストがあるものだと思います。

そういった意味においても、今回のお題は参考になりました。

どんなに積極的に探しても認識できない疑問や問題がある訳で、つまり100%リスク回避できる問題解決提案は出来ないということが明らかになった訳です。

おかげで見積もり提示の際、値引き交渉となった場合のカウンタートーク思いつきました! (俗物でごめん)

 

RESPONSE FROM ayanori[高岡 礼典]

乱暴にシステム論の基本的な考え方を説明すると
自分が選択しているものが『システム』、選択していないものが「そのシステムにとっての環境」というふうに考えます。
(ちなみにこれはキリスト教神学から続く選択原理がアイデアのソースになっています) 選択している(限定された)ものしか知らないということが前提になっているので、自分は自分の選択項を初期条件にしてふりかかってくる危険を予測しても、それも限定されたものでしかないとシステム論は考えます。
この予測可能な危険を『リスク』、予測不可能な危険を「災害(ハザード)」といって、一部のシステム論者(リスク社会学)は区別します。

 

 

COMMENTED BY さかもちみちる さん

カオス(混沌)なのか、カオス理論なのかちょっと判断つかなかったのですが、「〜理論」の方で行きます。カオス理論のことでしたらf(a,n)で表現できますよね、ローレンツアトラクタとか。というかこれって予測できそうで出来なさそうな「何か」をモデル化するためのツールのはず。この振る舞いはカオスっぽいね、とか「みなす」ことであーだこーだ論じやすくなる。理論は現実を記述するものではなくて現実を近似的に説明するものだから、認識(正確には形式知?)をベースに人間が作り出した(想像した)ものがカオスなんだと思います。無限だって実際に見た人はいない訳で、そういった概念があると色々便利なわけ。

割と「言ったもん勝ち」みたいなところがあったりして。

だから、糊をぬったキャンバスに木の葉をばら撒いて「これはカオス的な芸術です」といえばそれはカオス。ただし正確には木の葉をばら撒くために脚立に登ってばら撒くまでは秩序であり非カオスな芸術活動(?)。んで、手を離れた瞬間からカオス。厳密には芸術の人はカオスとの接点をもっていませんね、当然コントロールもしていない。まーあとは出来上がったものが芸術かどうかですが、例えば鳥取砂丘の風紋が芸術ならそんな感じでしょうね。(横道ですが作り手不在で出来たのものは芸術になり得ますか?芸術がなんなのかはスイマセン過去ログ読みが不十分なのでちょっと・・・)

それから「知っていることしか知らない」ってこんな感じに受け取っても良いですか? → 「知りうることしか知ることが出来ない。でもどこまで知ることができるのか知ることも出来ない」

 

RESPONSE FROM ayanori[高岡 礼典]

つけたすことは特にございません。
字義通りの「カオス/ランダム」と日常使用する「カオス/ランダム」は意味が違うということの素朴な確認です。
>「理論は現実を記述するものではなくて現実を近似的に説明するものだから」
こういうことを言えない方のために書きました。たとえばポパーの反証主義とかを不必要にしている方々って結構いますから。

カントの哲学に特徴的なのですが"さかもち 君"のいう「みなす」というあたりを古典的な哲学は厳しく峻別します。だいたい「的」が付くか/付かないかで記述が変わります。

>「横道ですが作り手不在で〜 」
これはまたとんでもない長い道を開いてしまいますので、別の機会へ譲らせてください。
お願いします。

>「知りうることしか知ることが出来ない。でもどこまで知ることができるのか知ることも出来ない」
後件の限界の不可知はまったく同意できます。が前件の「知りうること」は解釈次第で転倒します。
可能性(蓋然性)の形式的な知なら賛同できますが、積極的な意味内容を含む『可能性の全知』という意味でしたら、後件へ接続できなくなるので私には理解できなくなってしまいます。
"さかもち 君"は「でも」で繋いでいるので少し蛇足なことを述べてしまいましたね。