芸術性理論研究室:
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09.18.2008
METAFORCE ICONOCLASM VOLUME.4-2.08
肌を切り裂く
 

混沌に関連する異文をひとつ書きます。その昔、穿孔によって死を迎えたと描写された場面全体を切開として描き直し、原初創造を確保します。

有機的な生命個体にとって、肌自体はプロダクトの筐体のように限定付ける容器などではなく、臨在圧自制の表れとして認識されます。肌の存在位置は個体内容が本有する領域の限界でありながら、個体システムを完全拘束することなく、自由を賦与し、要求を受け入れます。厳密的には、肌は自立的な担体などではなく、受動的な自動体であって、「限定付けさせられている」に過ぎません。それは稠密なる内部描写にも表れています。もしも私達が肌を対象視しているとするのなら、肌へと到達するまでの『間』が発生し、機械のような粗密体として描くことでしょう。飲み込み、吸い込みながら生を送り、実際的には異物が通過する管や胞があるにもかかわらず、多くの生活場面で肌の内側に血肉の普遍・約束を観ているはずです。決して日常において当然のように出会うことがない血肉は、肌の伸縮(可能性)をおかさず、ひっそりと潜在することによって、肌の「表面」をやさしく含意しているのです。

その日常的な漏出なき含意は、私達に自己を覆う肌が一枚の単一構造であることを教えてくれます。それは、どこかに「つなぎ目」があり、容易に切り離し、分割できるものではなく、密なる余剰です。目や口のような可感的な「穴」が開いていようと、それらは円形に還元されるため、線分がないので、肌の表面は単一を成し、『無限の一面』を意味します。それをなぞる他者の手は、ひと時も離れることなく、また同じ箇所へと戻り、愛撫を繰り返し、なぞられる者は自己身体のシェーマを「一」なるものへとふるわせます。

ここで触覚が第一感覚であることを知る方は、それが『一なる無限の面』であるが故に原初創造が「傷」であることが分かると同時に、創造の所在も悟れるはずです。

それでは、良く切れるナイフを一本用意して、肌に「傷」をつくってみます。押し付けられた刃先に極度の緊張を感じるのならば、それは想起される『痛み』にあるのではなく、その行為によって完全を壊してしまうであろうリスクのためです。白いキャンパスや原稿用紙へ最初にのせる筆への恐怖と同じことなのですが、ここでつくられるは「傷=口」になるので、不可避の選択の中で超越にも似た突破を要求されます。まったき面である肌につくられる「傷=口」の位置は、行為前であろうが、行為後であろうが、そこにつくらなければならない理由がなく、つくられた後は存在の同語反復による無根拠の絶対を主張することになるのですが、それを主張する創造物の所在はどこにあるのでしょうか。溢れ出る血肉は潜在物の現出でしかなく、創造として描写されず、観察者は「傷=口」という「肌にぽっかりとあいた穴」を見つめるだけになります。それは確かにナイフという道具によって創られたものであるにもかかわらず、対象性がなく、鑑賞を拒否しているかのようです。「傷=口」という様態は「目や口」のそれと近似しているので、分かりにくければ、分割として誤読できるくらいに大きく肌を切り裂いてみると良いでしょう。向い合う「辺」の歪みが大きいければ大きいほど、両端に位置する接合点は焦点域から外れ、見る者は二つの面と、ひとつの間隙を描写するはずです。それは原初的なシンメトリーや区別を意味し、「左右」や「上下」という構造が観察されます。重要な点は、制作後の場面で現れるそれら対構造は浸透する制作物を指し示しはするものの、その要求を受ける作品が同質の構造地平にはなく、それらの「間」にある「穴や空」は「中心」である役目を果たさず、イデアールな超構造域に留まる様相にあります。

「創」とは本来「傷」を意味します。訓育された技術や芸術に芸術性を読み取れないのならば、それは間違いではありません。構造の再構成でしかない制作物が、条件付け・制度・文化による保護がない限り創造を意味しないのは当然のことです。刃物による「切る」という行為だけが、質的飛躍という臨在の事件を起こし、『知』や『心』を求めます。人の手による出来事であるにもかかわらず、「そこにあり、そこにない傷=口」は無と有の循環を包摂し、「創造」の形容を纏うのです。

 

以上が当研究室における「創造」の一般的描写であり、腹部表面を切り裂く分娩を特化するための予科になります。それは、このコラムを超えていきます。

 

2008年9月18日
ayanori [高岡 礼典]
SYLLABUS_2008