芸術性理論研究室:
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09.16.2006

絶望と憎悪

 

仮に憎悪の類を産出する一切の契機が喪失してしまうと私達は自他の概念的区別がないカオティックな環境内に同化・浸透した等質世界内存在として生きることになるでしょう。それは認識域に前景も背景もない見る者を観る者が不在した生なき生に沈潜することを意味します。私達が自らに由る生を歓喜するには無垢からの跳躍による自己の脱純化を経ることによって複雑化を企てなければなりません。ここから汚れていくことのペシミズムが産まれることになるのですが、それは無用の推論です。一般にエレメントとして形容されるようなものがなければ完全な『純粋』を意味します。しかし要素性のないものは系を整序・構成しようがないので本来的な『美』を意味することなく、また「知識(エレメント)」を記述外にしているので取捨選択といった人の特性に反し、美を知ることも語ることもできません。だから私達は汚れうる可能性に臆病にならなくてもよいのです。重要な点はこの論理過程へと導く非連鎖のフェイズを如何に捉えるかになります。

前回のコラムで示唆したように単一地(面)を開拓してしまう理論を捨てれば、自由に振舞う他者を知ることができるようになり尊重の場面を獲得できそうに思えます。しかしそれは他者一般の存在性、その形式を知るに過ぎず、他者の戯れまでをも保障しているわけではありません。私達は普遍を目指して知を創造・構成することはできますが、そこから洩れていく特殊対象と対峙することのない世界に生きているわけではないので必ず不自由な世界相となんらかの関係を持たなければならないように先行的であるかのように義務づけられています。「理論と実践」の間にある「と」は古来より形容しがたいものなのです。それは並列なのか、対立なのか、結節なのか、またはそこに方法を埋め込むことは可能なのか。その答えを知らない私達はそのために誰かを憎んでしまうかもしれない社会的場面からも不過避なのです。

私はここで他者憎悪を自己絶望へとシフトさせたいと考えます。述べるまでもなく『絶望』とはキュルケゴールが心の閉鎖性や円環性を形容代表するために「死に至る病(*)」で用いた術語ですが、このコラムではそれを道徳的に解釈し、行為規範のファーストオーダーへ加えたいと思います。

(*)キュルケゴール[1849]「死に至る病」(斎藤信治訳)岩波文庫1939,1957

憎悪は捕らえられない他者を目標としているので無限に行為理由を産出するかに考えられるのに対して、絶望は目的論を含まないので社会性を排除した忌避すべきものとして一般的には理解されているかもしれません。しかし憎悪とは双方向的な自体交換を前提として指し示す誤謬でしかありません。願いが届くかもしれない可能性になんらかの依拠がなければ憎む必要などないはずです。仮に初期状態へ戻す術があるのならば、それをエントロピーとして定義し積極的な記述を与えられるかもしれません。しかし憎悪に限って述べるのならば、それは発生の自体性によって禁止されているので、やはり反社会的もしくは没社会的と形容せざるを得ないのです。

この帰結によって私達はパラドキシカルなディレンマに嘆くことを強要されるのではなく、外挿された背後に初めから潜んでいた絶望に気付かされることになります。絶望とは行為者によるアプローチの可能性が無化された状態でも段階でもありません。それは単に『見出せない』に過ぎないものです。絶望に受動態があるのなら、私達は包囲している構造が自己の思考図式を意味することになってしまい学習が不必要となり社会的コンフリクトが一切ない空想的な平衡存在になってしまいます。それは本来的に嘆きの対象にはならないものです。

絶望の真意とは心の本性を手中へおさめる契機として次の場面を約束した『ひとつの階梯』です。夢や希望とは心の志向であって指向ではありません。字義どおりにそれが叶うのならば私達は奴隷の行為を観察するだけで死に至ることになってしまいます。『叶う/叶わない』の区別は前場面で抱いた目的自体によって行われているわけではなく判断時の可能性に基づいて都合よく自ら自身を再教育しているに過ぎません。そのため閉ざされた絶望とは自身の力なさでしかないものなのです。

 

心はいつも裏側にその真理をあらわにすることによって私達へ倫理へと誘う未規定・未定義の契機を提供し続けています。ここではその挫折にある心の本性を知ることによって『自責の徳』を学ぶことができます。絶望は愛憎を切り離すだけではなく、憎悪の価値操作を可能とする唯一の手立てなのです。

 

2006年9月16日
ayanori[高岡 礼典]
2006_夏_SYLLABUS