芸術性理論研究室:
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09.06.2006

愛憎を分化する方法

 

憎悪の歴史上に「許し」のフェイズが希有であるように、発生以後のそれは対象との関係を没した「理なき拒絶」であり、結節されない経路を保つ断交以上のものを意味しています。多くの被害者達が返しようのないものを生涯にわたって返戻要求し続けるように、危害と償いは同等化できない非対称的な乖離概念なので、憎悪は対象との対応性がありつつも自体的に強度を拡大してしまい、解消の術を見出せない者はやがて自己破壊へと自ら自身を導いていきます。仮に憎まれる者を殺したとしても構造レベルでの還元が不可能な私達は憎悪理由である可逆要求を満たすことなどできずに、それは滅することなく確かな場を占有し続けるであろうことは述べるまでもありません。

そのため憎悪とはシステム論における免疫などといった論鋒上にはありえない絶対者であり、理論的記述を不可能としているため一度それが発生すると消去困難になってしまうのです。ただひとつ憎む者の自壊を除いては。だから私達は憎しみを消す方法ではなく「憎しみを産み出さない方法」を考えなくてはなりません。既存を薫化することを諦め、期待に留めたいと思います。

そこで俗説にある愛と憎しみの一体的な描写を例にあげて、その方途を模索します。コマーシャルなドラマには愛憎を表裏をなす同等のものとして扱う命題が今も昔も当然のように並んでいます。「愛することは憎むこと」などといった思いつきのようなパラドクスを掲げることによって幼児を欺き差別化を目論んでいるかのようです。おそらく「何故」と問うてみても「大人になれば分かる」などといった意味不明な常套句が返ってくることでしょう。

心を置き去りにして躯ばかりが成熟してしまった彼/彼女らのような知的ネオテニーはなぜ愛する者を憎しむようになるのでしょうか。対象選択を誤ったためでしょうか。愛し方を間違ったためでしょうか。最適選択を不可能とする私達にその筆頭理由を前者に求めてしまうと無限後退するだけなので、ここでは後者にその答えを見出すことにします。

愛憎を同等に描く愛の原理を分析してみると即座にそれが尊重ではなく自他同一化の要求であることに気付きます。性交におけるエクスタシーの語源が中世キリスト教神秘思想の鍵概念であるエクスタシス(脱自)にあるように、自己を超えて他者との同一化を企てることが通俗的な愛の理解になっています(*)。伝統的な西洋論理ではそれは「死」を意味するのですが、科学が集団の認識原理となっている現代では矛盾なきものであるかのように受容されているようです。地(面)を自他往還可能な連続・単一のものとして措定する経験科学の準拠枠では支配不可能なものはあり得ないことになってしまうので、他者存在に関する素朴な事実把握すらできません。自己の意志と他者の行為は本来的に接点などなく連動しようのないものなので、他者の自由を知ることのできない科学技術者は苦もなく恋人を憎しみ始めることになります。上述したように憎しみとは理論的記述を不可能とした際に産出される準免疫になるので、科学的視座に基づいた愛の対義は必然的に憎悪になってしまうのです。私達は自己産出した構成素集のすべてをシステムへ還元・実装できるとは限らない生を送っているはずです。

(*)男性的な外方向であろうと女性的な内方向であろうと、ここではそれまでの自己形式を脱却することに関しては同等であるといえます。

 

ここで私は行為規範を扱う学問分野を科学から人文へと引き戻すべきであると考えています。一般に行為は構造の重層化に誘導されるカスケーディングな現象として捉えられるかもしれませんが、私達は政策者である以前に自らがモティーフの部分を担う行為者であることを忘れるわけにはいきません。それを蔑ろにしたままでは首肯しがたい道徳を用意することによって愛する誰かをこれからも憎しみ続けることでしょう。

他者愛とは自ら『自己』になるための自己矛盾を自覚させてくれる必要なディレンマなのです。

 

2006年9月6日
ayanori[高岡 礼典]
2006_夏_SYLLABUS