芸術性理論研究室:
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09.14.2007

無表情について

 

日常の私達は身体部位のひとつである顔面の覚醒時における形態変化を「表情」と呼び、情動や感情、感覚や内部身体の状態と密に連動・対応した運動現象として観察しています。目や眉毛、頬や口の動き、皮膚の赤らみや発汗、涙、頭部全体の傾き等、それらは喜怒哀楽から明文困難な情動や体調を他者へ伝えるものとして扱われています。そこで取り交わされている内容は、自己や集団を保存するように働くものもあれば、何のためにその情動や感情を表さなければならないのか良く分からないものと様々なのですが、どのような表情であろうと、他者との関係内容にダイナミズムを与える契機になっていると捉えれば、目的性を認めることはできます。

そこで街中へと赴き、行き交う人々やカフェでくつろぐ方々の表情を眺めてみると、論点としている表情の前提に疑問がひとつわいてきます。相好に激しく躍動性がなくとも、何らかの表情を読み取ってしまうので、暗黙裏に棚上げしてしまっている「無表情」とは一体どのようなフォームなのかという疑念です。はたして「無表情」なるものを私達は造ることができるのでしょうか。

たとえば表情筋が発達していない猫やリスを観察すると、ほとんど表情なるものがないので、どのような心持ちにあるのか推し量りえようがありません。しかしこの判断は猫やリスと生活を共にしている方々には納得のいくものではないはずです。ここで動物種にも人と同様な情動変化があるか否かの吟味は横に置くことにしますが、仕草や振る舞いを除外しても、彼/彼女らを家族にしている方々は、ほんのささやかな顔の形態変化を知覚し、『気持ち』の認識に成功していると思います。それがどんなに変わらず同じ顔つきであったとしても愛する家族であるのならば、現場面におけるAという表情と、前場面における同じAという表情の間に差異を読み取り、前AをA'化することにより、遊んであげたり、抱擁してあげたり、そのまま無関心のフリをしてみたり、自己の行為選択に役立てていると思います。

たしかに起伏のない平常心なるものは自己の内観によって認められるので、「無表情」もありえるかのように思えます。しかしそれはどこまでも内観レベルにあるものであって、観察域にあるものではありません。表情とは読み取る側の系の不断のダイナミズムによって作られた動的概念であって、無表情なる形態は系と環境間の混乱によって作られた空想のひとつです。仮に自己の鏡像にそれを認めることができたとしても、他者は一義的に同意するとは限らないという帰納性によって、上述の命題は逆説的に首肯されます。

情動や感情を封殺した人物画の制作が困難であることを知る美術家達は、ここから鑑賞者選別を目的にしたフィルター(スタイル)を作っていきます。

 

2007年9月14日
ayanori [高岡 礼典]
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