芸術性理論研究室:
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09.06.2007

ミメーシスと表現

 

美大・芸大で美術を専門的に研究したいと志す者らに要求される技術のひとつに模倣する力あります。鉛筆や木炭等を用いての石膏・静物デッサン、絵具による描写・構成、粘土による模刻等、それら一通りの画材を使いこなしつつ、ひととおりの模倣力が初めからなければ、少なくとも日本の美術系大学での研究資格は与えられないことになっています。いまでこそ学科試験のみで入学できる美術学科があるものの、ひと昔ふた昔まえならば、皆無に等しい状況でした。それはこれからも変わることなくあり続けることでしょう。

模倣力は美術と模写が同義であるためではなく、他者一般を踏まえた上でなければ、人工の種である芸術・美術に含まれる活動は不可能であるため必要とされます。誰が見てもモティーフへと還元同定できる絵を描けることによって『他者の気持ちや視点』を想像する力を測定されます。もちろんこの感情移入的な場面は態度としてなら認められるものの、哲学的には描けないものなので、多くの受験生らがデッサンや模刻で苦労することになります。しかしその苦しみはそれだけが理由ではないことを日本のアカデミズムは反省すべきではないでしょうか。

たしかに私達の表現と呼ばれる芸術作品の多くがメトニミーやシネクドキへと分類される比喩によって成り立っています。実際にある構造を含み込む手法を用いれば、外延の確保・拡張が可能となり、伝達のチャンスがある程度確約されるためです。掌握しがたい情動変化や恋人の美しさも、時制や動植物の様態と関係付ければ、『伝わっているのではないだろうか』と思い込むことが辛うじてできます。しかしここから芸術に対する本末転倒的な誤解が生まれ続けていることは否定できません。スタイルの先入見による「〜でなければ芸術ではない」などといった安易な当為前提による批判命題は拡張を第一指針にする芸術(や学問)にとってパラドクスであることは述べるまでもないことです。ここで何が除外されているかというと、『心自体』へのリスペクトなのです。その捉えがたい一性は質性なきものであるがために、本来的には表現不可能なものなのですが、そうであるがために、表現へと挑ませなければならないもののはずです。

ミメーシスという名の描写原理による具象性は接続力があるので、有用な扱いを与えられる反面、心の全体・それ自体の様相を研究する契機を不必要とするので、作業化された生をうみだしてしまいます。そこで作られるものは表現作品などではなく、単なる現状維持のためにしか働かないプロダクト以下のものでしかありません。

いまここで、暗喩を積極的に批判・評価できる指導者を育成する必要があるでしょう。何が表現であり、何を表現できて表現と呼べるのかを理解している者を。

 

2007年9月6日
ayanori [高岡 礼典]
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