芸術性理論研究室:
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08.21.2007

予期について

 

面前に二枚の写真が並んでいるとします。一枚目は何かの映画の一コマのようです。男性と風景が撮影されています。二枚目のほうは筐体のない無骨な機械が写っています。一枚目に写るその男性のような人物はフレーム外へと視線を向けながら微笑み、背景には良くある繁華街らしきものが見えます。一方、機械のほうは、ギア、カム、ベルト、チェーン、モーターやシリンダー等がどのように組み合わされているのか、その配置関係を確認できるのですが、既存の用途・目的のために作られたものではないようです。

このような二枚の写真の前に立たされる時、私達は様々な予期の種を知ることができます。機械の写真のほうでは、それが無目的に作られたものであったとしても、工学の知識や重工業の作業経験さえあれば、「どのような動作をするものなのか」次場面に起こりうるひとつの可能性に対し確定的に見当をつけることができますが、人物写真ではそれができません。その男性の笑みは改札口を出た恋人に対してのもので、次のシーンではフレーム内にもう一人の登場人物が増えるかもしれませんが、突然に射殺されないとも限りません。当然、予期不可能なハザードの可能性は機械写真にもあります。しかし、起こりうる可能性の縮減性は風景写真以上に機械写真のほうが高いように思えます。ここでは写真や絵画と鑑賞者との対峙によって生まれる相対的な複雑化への関係を「スティルの外延」と呼んでおきたいと思います。

古来よりある選択原理を用いての行為描写では「複雑性の縮減」だけが積極的に扱われますが、生得性を捨てた者達はその拡大現象を第一に描かなければならないはずです。それがお座なりにされる理由は結局のところ「才能や知力」などといった教授不可能なものに委ねなければならないためなのですが、予期することのない日常などないので、多少はその方法へと向かいうるラディカリズムないしは叙述のようなものがあってもよいと思います。

上述で確認した単純な例で分かるように、モティーフが具象であったとしても、また鑑賞の内包量が作家から切り離された鑑賞者固有のものであったとしても、何が描かれているかによって、可能性の増減・スティルの外延は大きく異なります。風景と機械の例で決定的に異なる点は、後者の枠外には図面が存在するということです。それ故に可能性の縮減率が高いというだけではなく、それ故に多数の者が再現性を与えることになり、作家の視点開示に成功し、伝達の普遍性に一歩近づいていきます。それに対して、図面のない風景は、どこまでも作家へと還元・秘匿されることになります。通俗的には前者に「分かりやすいが故のつまらない」があり、後者に「分からないが故の情緒」が待ち伏せしていることになり、作家達は表現内容・意図との兼ね合いを加え、その平衡点を模索していきます。それは理想的なスティルの外延「秘密の説明」といえます。

私が前回のコラム「鑑賞への偽法」で前提としていたように、鑑賞者は「作家/作品」を知りたいがために、ライブへと足を運びます。しかし芸術作品と呼ばれるものの多くに造形的なパースペクティブがあっても、認識のパースペクティブは用意されていないように見受けられます。それでは鑑賞へ向かう第二場面が空虚になってしまい、更なる理解の深化である換言の第四場面へと至れません。

このコラムで触れた予期は芸術至上を突破し、美術家という名称に甘んじることのない、本来的な表現へと臨むためには必須の項目になります。

 

2007年8月21日
ayanori [高岡 礼典]
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