芸術性理論研究室:
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08.14.2008
METAFORCE ICONOCLASM VOLUME.4-2.03
食感と歯牙
 

激高や嫉妬を抑える歯ぎしりは何者へとも干渉せず、ただ静的な佇まいの中で、畏れによって自己の自明を、その豊かな調べにのせて拡張していきます。日常生活において主に摂食の際に使用している歯牙を注意深く観察してみると様々な用途が見出され、私達にそれが構造でしかない未然の質料であることを教えてくれます。このコラムでは人の永久歯を中心に、口内で巻き起こるドラマを確認しつつ、身体全体へと響かせる形而上学的意味を描写し、自己の深化を進めたいと思います。

まずは、口内に多数萌出している歯を見てみましょう。多くの方が上顎と下顎に、放物線を描きながら列を成す二つの群れを観察できるはずです。それらは一塊ではなく、細かなパーツに分かれ、それぞれが二つとない複雑な形態にあります。歯学者らは、切歯・犬歯・小臼歯・大臼歯と、大きく四分類した後に、ひとつずつ名付けを行なっているようですが、ここではこだわらず、その複雑さだけを確認しておきます。咀嚼において切歯は物や食物を切断するナイフとして利用され、大小の臼歯は切断した塊を、さらに細かく砕くハンマーとして多用されます。食事の際に誰もが経験しているであろうことなのですが、この時、犬歯だけが積極的には使われておらず、文化的に重要なことを教えてくれます。もともと犬歯とは獲物の動きを封じ、命を奪い、肉を引きちぎるために利用されていたニードルであり、野蛮さの名残りになります。人類至上を過去に置く私達の現在において、使わない歯の出現や、歯自体をほとんど使わない料理の考案は思想的に理解が可能です。狩りを専門化し、ナイフやフォークといった食器類の発明によって、外部へと放棄し、不使用の自己定義を行なうは、非合理的ですが『人類』の区別・確保が可能になります。また、それ故に犬歯を糸切り歯と呼ぶ日本文化の才能にも気付かせてくれます。

犬歯に着目すると別の議題が現れます。それは摂食のためだけにあるのではなく、「噛み合わせ」をリードし、左右へずれないように固定する役目も担わされています。顎の形を放物線から矩形へと単純化してみると実感できるかもしれません。竹ヒゴやプラ棒等で作られた四角形から、角を取り除くと「バラバラ」のパーツへ戻ってしまうように、その「角」の位置に対応する犬歯も重要になります。厳密には、上顎と下顎の重なりによって作られる直方体の「高さ」になるのですが、犬歯のなめらかな鋭利さによる先導がなければ、「口を閉じる」という一動作すら逐次確認して行なわなければならなくなることでしょう。猫や犬と生活を共にしておられる方は、その様相を見せてもらうと、人のそれ以上に分かりやすいはずです。片方の手で顎の付根を頭上から押さえ、もう片方の手の指先でかわいらしく並ぶ切歯を押し下げれば、容易に顎の開閉・犬歯の役目のひとつを見て取れます。彼/彼女らがもつ麗しい犬歯は野蛮の代表物だけに位置付けられるものではありません。

ここで「噛み合わせ」という場面確保ができたので、次に「食感」とともに自己へと臨んでいきます。私達が食材を選ぶ時、「味」のメロディーだけではなく、「食感」のリズムをも重要視するように、摂食は舌だけではなく、歯による味わいもあります。当研究室において味覚は『即自感覚(*)』になるので、『食感』もそこへと帰結させます。

(*)『味覚的触覚・舌について

食感は歯の存在だけを前提としているのではなく「噛み合わせ」をも要求しています。その都合によって咀嚼の速度・テンポが変わってしまうためです。「噛みごたえ」ある食材を「噛みしめた」時、「歯の存在」と「噛み合わせ」に歓喜できます。なぜ私達は食感にこだわるのでしょうか。それは、とにもかくにも自己直知にあると考えます。

食感は、物と物の接触による振動と換言できます。つまり、触覚の亜種になるのですが、上顎と下顎のバインドによる激しい破壊活動である点に特殊さがあります。それは対象の強度やボリュームの取得だけに留まるものではなく、他者を自己へと超越させる強制を意味します。取得された心的現象としての他(者)は先行的かつ含意的な自己強度の優位によって、存在論を切り裂かれ、自己へと取り込まれます。砕けゆく振動は他(者)を開く音だけではなく、開いた他者の意味論的な内容構成となり、「噛みしめる」という自己関係場面によって同一化へと収束します。ここに「甘噛み」の理由があり、相愛到達への困難さがあります。

もしも人類に歯牙がなければ、もしも人類のそれらが歯根によって自己身体に固定されていなければ、私達の食事という文化は広がることなく、無味乾燥な作業になっていたことでしょう。心的存在にとって摂食は栄養を補う構造交換ではなく、「私」から『自己』へと臨み畏れる直知へのひとつの手立てなのです。

 

2008年8月14日
ayanori [高岡 礼典]
SYLLABUS_2008