芸術性理論研究室:
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05.21.2007

味覚的触覚・舌について

 

もしもそれが流れ出ないものであったならば、もしもそれが頬を伝わるものでなかったのならば、私達はひとつの情動変化を理解から失ってしまうことでしょう。あふれる涙が流動性と温かさを肌の一部へ伝え、頬がそこから触覚与件を創り、その与件によって不確定な情動が境界付けられるかのように関係化されて、初めて私達は自己の悲しみの換言を可能にするためです。眼球を潤す涙は普段一片の発言すら行なわないにもかかわらず、視界を奪い(*)、こぼれ落ちた途端に、それは激しく自己言及を始めます。悲しみの表現と悲しみの自己認識は同等であるといえます。そのため悲しい故の涙でも、涙故の悲しみでもなく、涙と悲しみは浸透的な自己客体関係になります。やわらかい頬も眼球や粘膜に比べ固いために、それに最適化している涙の存在を感じることができます。正しくは頬という触覚器官の特性によって涙に自己を含意させることができます。またそれ故に私達は涙とともに悲しみを落とし、無に帰す期待が可能になります。

(*)ここにも生物学一辺倒な進化説明を排除する論拠があります。

しかし流線を描きながら流れ落ちる涙の帰結が地にあるか、舌にあるかによって、その可能性の価値・質は大きく異なります。地へ落とした涙は自身への帰属項(作品)となり、舌で舐めとってしまったそれは、悲しむ自己の再構成を意味してしまいます。地を濡らす涙は不確定であろうと、視覚把持によって単位化され、地(面)の繋辞によって他者になりますが、頬から口内へと流れ込んでしまった涙は自己関係的なリカージョンのため、悲しみの継続を構成してしまいます。味覚変位による帰結は触覚同様に境界を閉じることができないためです。

最小の味覚与件も触覚のように、対象と舌との遷移関係がなければ、現象化することができません。舌の上に落とした雫は刺激という触覚与件の範疇周辺にあるものであって、味覚の閾域にはありません。『何か感じるけれども、どのような味なのか分からない』はずです。味覚も進行形の場合のみに意味内容への経路を開くことになるのですが、そのために単位的把持が困難といえます。たとえばコーヒーを一口含む、二口目を含む、または、少量のコーヒーを口にすると口いっぱいに含ませるとでは、確かに味覚与件の強度差があろうとも、その差異を明文化できないという意味で、味覚は理解・批判を超えた浸透的器官といえます。これはその発生契機を考えてみれば容易に知るところです。述べるまでもなくそれは食物判断のために働きます。味覚器官を頼りに前自己と他者の区別をしているかのようです。しかし日常の「おいしい/まずい」といった付加価値的なコードをも含めて考えると、舌のそれは可能/不可能ではないことが分かります。どのような味覚情報であろうと、選択の恣意性を決定付けることはできません。味がなかろうが、まずかろうが、私達はとりあえず飲み込むことができるはずです。多くの動物種が臭覚を頼りにしつつも、習慣に依拠しているように可食/不可食のコードは文化が担うものであって、それを判断する器官はないことが分かります。つまり味覚とは他者を創りつつも他者を失ってしまう感覚であり、没コード的な即自感覚であるということです。それが無味でなければ、舌は自己のエレメントとして取り込んでしまうのです。

 

涙の味は泣いている自己へ泣いていることの終章を教えてくれます。しかしそれは味覚の特性によって系を閉ざすことなく新たな拡張を提供しています。特に人類の場合、味覚は構造的に触覚恊働を条件としているので、同化性がより高いように予測できます。そして私達はここから相愛への可能性、あるいは意義を導出することができます。

舌の愛撫による『他者の味わい』は触覚による自己含意を味覚コードによって脱含意化し、包摂します。能動態による他者の観想が超判断化され、私達はお互いを舐め合う場合のみに、辛うじて相愛の現象が許されます。

 

2007年5月21日
ayanori [高岡 礼典]
2007.春.SYLLABUS