芸術性理論研究室:
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08.04.2006

地平について

 

厳密に記述するのならば『地平を同じくする』という命題は矛盾を孕んだ偽文になります。ここでの地平は抽象可能な捨象項としての環境を意味しているので、一般的なシステム論の冒頭にある定説と同様の環境の共有不可能性について主張していることになります。しかしこのコラムでは「環境」を「地平」へと代換すべきことを提案したいと考えています。「環境・周りの世界」という術語は非境界的で地(面)の問題を不透明にしてしまうので、ポスト科学的な心的システム論において援用可能な有用性はありません。そこで教科書的な再確認をとおして『地平概念』へとシフトします。

ここに単位として数えることが可能な二つの組織(システム)が対峙していると仮定します。仮に各々を[A]と[B]と呼ぶことにします。それは個人でも複数の単位が集合したグループやクラスターであってもかまいません。重要な点は第三者による観察記述によって抽象されるレベルでその組織の「名義」を冠すべき行為や作品をそれぞれが産出可能としているか否かになります。ここでは機能を何らかの視点(原理)へ対応させているのですが、それは扱う組織が自己を内包していることの証左として捉えられることになります。それが組織ならば自己を有していて当然であると思われる方が居られるかもしれませんが、静物には自他の区別は初めからあり得ない観点になるので、環境や地平についての論述は必要/不必要なき問題になり、そのような組織はこのコラムに含まれないものとして捨象しなければなりません。

それによって認識理論の内属期待が可能な二つの組織[A]と[B]の特殊な帰属環境について論じることができるようになります。一般的なシステム論ではここで相互に相手を環境のエレメントとして含み合うことを論拠にして環境内容の不一致を主張し、共約不可能性についての問題を指摘するにとどまるのですが、それだけでは環境の定義・規定がなきに等しく、場合によっては全知へとミスリードしてしまうので当研究室において満足いくものではありません。[A]と[B]が監視的な対峙関係を恒久維持するといえるのならば、環境を普遍レベルでのみ扱っても特殊性を包摂していくことができるかもしれませんが、それは述べるまでもなく空想のお話しになります。それぞれの歴史上において[A]と[B]が相手との接点を一度も経験しない場合、その乖離的距離関係における相互に含み合うことのない排他的環境を現代システム論はどのように説明するのでしょうか。ここに科学的視座に基づいた理論の多くが抱え込む「他者記述不可能性」の問題が横たわっています。複数の組織間における環境は相手を含むかもしれないし含まないかもしれないという両立的かつ排他的な命題が妥当性たかいはずなのです。他者を非選択することによって自己の独自性を謳う環境把持は他者知ばかりではなく環境概念を単一化することによって、まるで認識射程が無制限であるかのような描写を展開してしまいます。[A]と[B]は各々が本有する視点から捉えることのできる範囲を地平によって切り抜き、環境に輪郭を与え、固有の捨象項(周囲)としています。その際、任意の組織間においてそれぞれの地平線が接したり交叉する可能性は偶然の域を超えるものではありません。

 

いみじくもフッサールが様々な認識世界の区分を設定したように、有限である私達は知る世界、知らない世界に臨まれるように包囲されています。例えばプレゼンテーションらしい自己説明が一言もないままに、デザイナー達が何を捨てたのか自覚することなく単純化されたイラストやトレードマークの制作に勤しむことができる所以はそこにあります。

 

2006年8月4日
ayanori[高岡 礼典]
2006_夏_SYLLABUS