芸術性理論研究室:
Current
07.20.2007

オブジェとしての絵画

 

美術の展覧会へと赴くと、旧来の警告文が必ずのように無用の緊張感をその場に漂わせ、落ち着いた鑑賞を妨げます。まるで、その作品への愛を禁止しているかのように「お手を触れないでください」という注意書きの札がならび、入場から退場までの鑑賞者の振る舞いを監視し続けます。そのような圧迫的な場へ、アートに不慣れな方を連れて行かれたなら、その暗黙の了解が理解できず、ますます美術を毛嫌いしてしまうことでしょうし、美術を愛好する方にはその気持ちが少しも分からないかもしれません。当研究室HPをご覧いただいている方々の多くが『そんなことは当たり前』とお考えになっておられるかもしれない、この慣習に対し、ここで私は「それが美術理解を低下させる原因になっている」とする主張を行ない、美術制度にあるひとつの絶対性を斥けておきたいと思います。

デジタルメディアではなく、顔料や既製絵具等を使用する画家達は表現内容がいかに非形象的であろうとも、それらマテリアル群とつき合わないわけにはいきません。その作品が他者へ向けて公開するものであろうとなかろうと、表現の第一的理由が自己理解にあるのならば、超心的な感覚対象へとエンコードしなくてはならないことは、ひとつの策として容易に想像できることでしょう。同内容の非同質体の拡大は換言以上の理解の深化を指し示すためです。

そこで今まさに絵筆をのせようとしている画家の面前にある画面を観察してみると、それがテクスチャー(肌理・織地)と呼ばれる所以が一目で分かります。マティエールのない単色の下地であろうと、慎重な研磨が施されたフラットに見える面であろうと、触れてみれば、そこには様々な種類の凹凸があることに気付くでしょう。述べるまでもなく、その画面を用意した者は画家本人であり、全面にわたって密に色の定着可能体であるか否かの確認が、作家自身の手によって済まされた「作品の一部分」になります。たとえ表面処理をエアブラシ等による「吹き付け」で行なっていようとも、画家のもつ超視覚性(デッサン力)によって、それは触覚的に判断されたものと考えます。そのため、制作の実作業が始まる以前の段階で、私達は「平面作品」という言葉は厳密には妥当性なき形容矛盾であることに気付きます。

筆ののせ始めから筆を置く最後まで、画家は絵筆をとおして、そのテクスチャーの微細な変化を拡大身体的に感じ取っていきます。塗り重ねられる絵具との共働によって新たな肌理が形成され、逐語的に画家は表現内容との対応性に関して査読していきます。タブローなら分かりやすいことでしょう。誰もがその絵具のボリュームに作家の想いを感じたことがあることと思います。それは意図なく乱されているのではなく、超えられない心の冗長性が代表された作品の一部分であり、その直感は間違いではありません。

 

私達は身体の構造上、視覚だけによる絵画制作を不可能としているため、絵画作品はオブジェであり、その鑑賞に触知は不可欠なのです。「表現されたものの感動」ではなく「制作の最中にある創造的な感奮」までをも読み取らずして絵画鑑賞など本来的にはあり得ません。作家の制作過程の追体験が不可能である以上、せめてその過程に密接して構成された産物や、その作品の素材的な構成関係を肌へ向けて公開しなければ、オーディエンスは絵画作品をどのような術によって読解すれば良いのでしょうか。

もちろん、接触禁止の第一理由は「汚れ・キズ」からの保護にあるのでしょうが、そもそも脱劣化による永遠化が人の『理解の実様相』から遠くかけ離れたものであることに気付く必要があるでしょう。腐敗・褪色しないCGやHTMLが、もし絵画(顔料)や書籍(紙)より劣るものとするのならば、その論拠はこの点的な永遠性にあると言えるかもしれません。

 

鑑賞者にとって『私とともに朽ちていく絵画』は得心への重要な糸口なのです。

 

2007年7月20日
ayanori [高岡 礼典]
2007.夏.SYLLABUS