芸術性理論研究室:
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07.02.2005

学問・芸術の前提について

 

意味を知ることなく大学へ進まれた方々は社会へと出たとたんに「大学で学んだことなど何の役にもたたない」と不平をもらしはじめます。また学歴形式によってのみ新入社員を選ぶ雇用者は「大卒のくせに使えない」と昔から地団駄を踏み続けています。

これらはみな学問に対しての最低限の社会的前提の無理解が生みだす劣弱な諸命題であり、自らの浅はかさを曝け出す羞恥すべき主張です。

レストランへ行って「パソコンを売ってください」、ギャラリーへ行って「野菜を売ってください」と言うことと同義のカテゴリーミステイクを行為上でおかしているのです。

前回のコラムでも触れましたが学問とは既に目の前にあるものを首肯する予め決められた目的へと如何に隷従するかを考察するものではありません。学問は既存の前提ではなく未存への可能的な前提でしかなく、コードは知的領域にのみ限定されたものの筈です。ですからそれを産み出す者にとって社会への貢献度は不純物であり、それは経済原理側の者達が勝手に思い込んでいる幻想なのです。

資格が欲しいだけなのなら初めから大学へ行くことなく専門学校で十分なことですし、即戦力が欲しいのなら能力を採用基準に据えれば良いだけのことです。

学問が産み出した様々な叡智の集成の中から経済原理にとって都合の良いものだけをスノッブ達が利用することによって、いつからか学問は社会の前提のように捉えられがちですが、非目的論性を再確認しない限り、社会と学問の関係は無用な係争で埋め尽くされ続けることでしょう。

 

2005年7月2日
ayanori[高岡 礼典]