芸術性理論研究室:
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06.24.2005

余暇について

 

学問が華やぎ始めた西洋中世において余暇とは称揚すべき時間帯を意味しました。なぜなら生命維持を目的とし絶えず緊張した時間を送るとされる動物に対して、それは人間にしかなく、また学問へと向かううえでも無目的な時間がなければ行いようがないためです。無駄や非合理性とは人へと配分される重要な概念とされていました。

しかし現代における余暇とは侮蔑の対象、もしくは揶揄の言葉にしかなっていません。これは資本主義や市場原理だけではなく、もっと根本的な経済原理というものへの懐疑心すらなくなってしまっているためです。科学と義務教育が配給する経験論が社会内容すら絶対のものと信じ込ませているのです。

自身が労働信仰者であることも知らないといった無反省は知的営為確保のための交換社会を交換のための交換社会へと目的を改竄することによって半径の短い円環を作り出します。行為自体が目的になっているため速度は必然的に加速を増し、しかも最小のエレメントによる運動なので硬度も頑強になる一方です。

この本末転倒劇は「無知・無反省」が原理になっているので、決して幕が引かれることがなく、忙殺こそが美徳になります。

本来、学問とは目的遂行的な営為ではありません。学問はあり得ない真理へと無限に接近して行くものであるため、そこに操作性はなく『目的創造営為』と呼ぶべきものなのです。そのため学問従事者がどれほどに甚深な思索を行っていようとも労働原理による観察者には「何もしていない」と罵倒されることになります。

この拮抗は容易に解消することはできないことなのですが「余暇」という言葉を暴力的に使用する方々は目的を自己産出できない己の他律性を恥じ、自律という意味での主体性を反省すべきです。他者の言葉を無理解に詠唱するだけの方々と対する者との間に人間らしいコミュニケーションなどありえません。これでは何時までたっても社会始動の契機など得られないのです。

学問や芸術、近年でいうなら「ゆとり教育」などというものへの排撃は往々にして『守るべき自己内容』のない幼稚な嫉妬心の表れでしかないということです。

 

2005年6月24日
ayanori[高岡 礼典]