芸術性理論研究室:
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06.30.2006

『私』と『我々』

 

当研究室HPにおいて現在ご覧になっている中間報告[コラム]では著者自身を指し示す言葉として『私』を、研究レポートでは複数化された『我々』を使用しています。この『我々(威厳を示す複数形)』から始まる論調には『精神』を産み出したドイツ思想の邦訳を初めて目にした際に抱くであろう違和感と同様に閉塞的なコミュニズムや排他的な集団色を感じやすく不愉快に思われる方が多く居られるかもしれません。とくに学術論文を読み慣れていない方々にはレポートで用いられている『我々』に戸惑いを強く感じられているのではないでしょうか。そこでこのコラムでは当研究室HPにおける『我々』という言葉の積極的な理解を述べておきたいと思います。

言語教育において教授する際にもっとも困難な言葉とは人代名詞の一人称であると古来よりいわれています。もしくは『私』と『私』に付けられた名前との分化です。20世紀後半にラカン心理学が一般的に知られるようになると、他者が用いるべき自己の名前によって自分自身を呼び表す者は自他未分化な鏡像段階に留まる幼児であるとされました。それは言語記号至上的な認識論になるので援用された論文の数以上に首肯しかねる方も多いと思いますが、日常の生活世界において「名」で自己を呼び、会話に挑もうとする成人とコミュニケーションが上手くいかずに頓挫してしまうような経験を当たり前のように過ごされていることも事実ではないでしょうか。

そのような成長段階に留まる者に学術論文を批判させてみるとその未発達さが良く分かります。先人のテクストを引用しての比較検討自体の必要性が理解できず自説だけを要求してきたり、そのテクスト内での論理が完結しているとそのまま無批判に受容してみたり、逆にまったく無関係な説による反論を返してきたりします。分化以前の者には自己の確立が未熟である以上にそれを規定する他者一般といった概念がないので『思いついたこと』がすべて無反省に自己を構成する素因になってしまいます。その論述は曲線のない単線的なもので、まさに幼児の戯れであり、無邪気で直情的な振る舞いを呼ぶことになります。観察者から見れば独りの言葉(思うこと)は自己を指し示しているかのように思えるかもしれませんが、自己懐疑のない論述は論理的に自己もなければ他者もない「発話者なきディスクール」でしかなく「考えること」ではありません。ひとつの連続にのる者がその連続に逆らおうと試みることなく、如何にして今まさに自己が何かしらの『流れにのっている』と自覚することができるのでしょうか。自己と他者は同一段階において表れる非排他選言的関係で接続されている『不可触の膜の向こう側』なのです。

 

制度・慣習は自他獲得を通過した者を『私』という単語に代表させ期待してきました。それを使いこなせる者を「一人」として数えてきました。しかしそれはマクロスコピックな楽観でしかありません。自ら表現・主張活動を始める者にとって自身の気位を託す言葉として『私』ではあまりにも貧弱すぎます。なぜなら『私』という主語は『思う』という述語との接続可能性を未だ保障しているために表現の強度を潜在的に低下させる言葉なのです。それでは意味的に未分化な幼児のものと変わらなくなってしまいますし、表現における責任を棚上げしているかのように評価されるかもしれないと思えてしまいます。

本来的に『思う』に『考える』は含まれてしまうので、『考える』だけを表すには何らかの厳密な使い分けが必要になります。そこでそんな誤読を招かないように私の嫡子である研究レポートにおいては『私』ではなく『我々』を使用しています。自/他分化による『考え』とは換言するならば自己反省による自己複数化を再統合した独りの思いになります。独りからの言葉として並べられる「我々は思う」は論理的に現象域における自己了解を意味します。それは判断の連続ではなく論述ある主張であり、反論の許容とその覚悟を表しているのです。

 

2006年6月30日
ayanori[高岡 礼典]
2006_春_SYLLABUS