芸術性理論研究室:
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06.17.2008
METAFORCE ICONOCLASM VOLUME.4-1.08
指甲を削る
 

のびた爪は「ながい髪」と同様に行動構成に大きく関係しているので、弱点/弱度批判が当てはまるかのように思えます。手の爪がながければ、キーボードの類は叩きにくいでしょうし、足の爪がながければ、折れないように「歩き方」を再構成しなければなりません。しかし、のびた爪が行動域へ及ぼす影響を観察してみると「ながい髪」から読解される弱度とは質が異なることが分かります。ながくゆれてなびく髪の毛は、バレッタやピン、ヘアバンドや帽子等を用いて束ね隠すことができるのですが、「のびた爪」は暫定的な形態変化ができないので、特異なフェティシズムでもない限りは、いつかどかで切り落とさなければなりません。古来より一部の西洋文化圏では“ savage ”の象徴として扱われてきた爪を、このコラムでは人/動物から解放し、弱度の種概念として確保したいと思います。

結論から述べます。「ながい爪」とは性別を持つ弱度であり、それを持つ者次第では行為の「不可能」へと至ってしまう拡大身体の境目になります。それは「やわらかい髪」ではないが故に、単なる自己身体を延長し、カウンターへと至ってしまうのです。

足の爪から見てみます。足の指は主に歩行や立ち居を補助し、それら運動の力の終点として位置しているので、指甲としての爪が生えている理由も分かります。それが曲がりくねるほどに伸びたとしても、立てなくなるわけでも、移動不可能になるわけでもないでしょう。すり足が可能ならば、「のびた足の爪」は足の役目を奪うことなく、弱点にとどまります。少しの批判が許されるのならば、靴や靴下の類が履けなくなるという事態があるものの、それらは分化的・暫定的であるため、ここでは反証度が弱くなります。どうやら足の爪はながい髪と異なる概念形成はないようです。では、手の爪はどうでしょうか。足の指による大地の把持に対して、手の指による物の把持は対象背面へと指がまわり込む視覚超越が起こるので、特殊な事態がありそうなのですが、足の指から区別される日常的な手の機能的差異は、のびた爪によって指先や手の平の肌がおかされない限りは守られてしまいます。「にぎる・つまむ・もむ・なでる」は多少困難になるだけで、目的遂行が達せられなくなるわけではありません。「つく・おす」のような指先を使用しての獲得なき他者言及行為の場合は、むしろ容易になることでしょう。

しかし、この検証に性差を加えると臨界突破による自己否定性が現れます。絶対普遍的な強さはないにしろ、それは普遍の部分として認めざるをえないので、爪を特化させます。もしも、手の指が少しでも伸びていたとするなら、異性愛者の男性や同性愛者の女性は、妻や恋人の膣内壁を愛撫できなくなり、性交における(他者)理解の契機をひとつ失ってしまいます。指先と陰茎による肌理の触知は、前者が対象的であるのに対して、後者は自己の肌理文脈を中心に据えるので代換関係になく、他(者)理解の深化のためには積極的有効な行為になります。仮に、のびた爪をもつ指先を挿入できたとしても、自由に動かすことができなければ、膣がどのような「超構造性」にあるのか知るに至らず、行為は無意味に終わることでしょう。困難を超えた不可能が現れてしまうということです。

 

爪はその長さと所有者の性によって役目を変えます。適度な長さにあれば「ひっかく」武器になり、「こじあける」道具にもなります。しかし身体の一部として存在するそれは、人の生の最小との連動が本来的となり、爪は指先を保護する「甲」以上の定義項を付随のものとしています。そのため、爪を整える行為は「切る」だけではなく、「研磨」というフィニッシュワークを必要としているのです。

 

2008年6月17日
ayanori [高岡 礼典]
SYLLABUS_2008