芸術性理論研究室:
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06.04.2007

『ここ』にある遺志

 

一昨年前のコラム「意志と行為」で述べたように、意志は行為へ至る手前で自らその本性を否定します。目的遂行記述がうまく成功したとしても、結果構造は意志を含み得ないために、観察されている完成体は懐疑挿入の可能性を完全払拭できません。それ故に制作者らは結果と方法の更新を試み、進歩という名目のもとに、時間の余剰を埋めていくことになります。作っても、創っても、同じテーマで作品を制作し続け、シリーズやバージョン、ヴァリアントやリミックスを並べ構成していける所以がここにあります。つまり成し遂げられた可能性は選択項など意味することなく、本質的に保留された潜在項となんら変わり得ないということです。ここで行為は思想に包摂されます。この局面に不動の動者や理性の狡智などといった主体性はありません。むしろ『遺書と読者』的な恣意関係にあるといわねばなりません。意思が意志へと臨んだ刹那に、それは遺志となり、その読解は身体や素材の勝手さに委ねられることになります。向き合いつつも没交渉的な相互自律性によって、私達はいま何を生きているのかと分からなくなりかけてしまいます。

そしてもし作品をつくり続ける意義というものがあるのならば、それはここにあるといえるかもしれません。制作継続による作品の羅列によって理解の経験・社会化を目論む技術は、自己目的といった条件付きならば認めざるを得ないように思えます。作家は「遺志として産まれた意志」の所業である作品と作品の間隙に「意志としてある遺志」の志向内容を読み取ります。この過去制作的な命題は主意主義への排撃ではなく、その擁護へと働きます。それは作家によるテーマ・スタイルの保持・変容によって保障されることになります。

私達はどのようなカテゴリーミステイクであろうと、何らかの意味を見出すことができるので、上述の説は首肯性がないように思われるかもしれません。しかし制作活動におけるテーマ・スタイルの論理的先行性に留意できるのならば、ここは狭く読まなければなりません。その内容把持が不確かであろうとも、制作原理の中で確かな位置と効力がなければ、作家は如何にして自己の作品を判断すればよいのでしょうか。何をもって、作品の成功/失敗を可能にするのでしょうか。

意志とは『知と理』をともに含み込むドライバーなのです。

たとえばヘーゲルは「手段と目的」を論じる際に、当該の目的が果たされても手段だけは残り続けると述べたことがあります。一見言い当てているかのように思えるこの説は芸術家の方々には意味不明なことでしょう。なぜなら多くの彼/彼女らは欲ではなく、創られた理念や気概によって自らを突き動かす自己制作者であるためです。

意志は遺志であるが故に欲ではなく、芸術家の振る舞いは没カセクシスとなり、成長ではなく深化批判こそが妥当であることもここで分かります。

心的領域のプログラムに初めから有生のものなどありません。

 

2007年6月4日
ayanori [高岡 礼典]
2007.春.SYLLABUS