芸術性理論研究室:
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05.17.2005
2005年8月15日に加筆してレポート009のページ下段へ追加致しました。
 

レポート009「形式と内容について」付記
死と自殺への言及権

 

「・・・誇りある仕方で生きることがもはや可能でないときには、誇りある仕方で死ぬことが大切です。(*)

「われわれは生み落されることを自ら阻止することはできません。だが、われわれはこの過失--なぜなら生まれることはときに過失であるからです--を後からもう一度償うことは出来るのです。もし人が自分で自分を除去するなら、この世に存在する限りの最も尊敬に値することをなし遂げたことになるでしょう。(*)

(*)ニーチェ[1888,1969]偶像の黄昏(西尾幹ニ訳)『偶像の黄昏/アンチクリスト』所収 白水社1991 116頁以下。

 

たしかに我々は生の発生契機を支配下におさめることはできない。しかし生は自己の発生によって被支配項となる。「自己」は自然科学的「人類」と「個体」の間に「関係概念」という亀裂をいれ、分化する。この階梯に至り自己は自我の影を知り、求心的な動作を開始する。我々は構造によって支配を受けるが自己意識によって決定論をすり抜けている。

「しかし関係概念を導入しようとも、それが弁証法的反復転倒を引き寄せる限り、主意主義的な主張には普遍妥当性はあり得ない」という批判は自立と自律の区別によって斥けられる。

分析的に綜合した生の非対称性に気付く時、我々はささやかな自己への抵抗を試みることになる。識閾下にあるアポトーシスは個の生を描き、事実への恭順はそれを苦しみのない死へと至らせる。生は死への目的論でもなく、死を排除するコードでもない。快楽が生の目的なら死はあり得ない。死が目的なら生の文脈はあり得ない。生きているが故の苦痛であり、死なのである。

我々はアウグスティヌスや一般化されたシステム論に対してこう言わなければならない。生のコードは生を前提にし、生と非生を区別しているだけではなく区別したものを共に内包していると。ここで生のコードが死のコードへ換言できないことは「死のコード」が形容矛盾であることを知ればよい。死はそもそも前提になり得ずコードを産み出しようがないからだ。しかしそれでもなお我々は死を学問的対象とすることができず、自殺という死の選択が自己の生であるとは同定できない。それは死の形式を選択しているとは言えるが、死の内容記述を可能としている保証はあいかわらず理論付けられないためである。

 

世界から自己をえぐり出してしまった思想家に反して我々は学問の外にしか自殺への言及権はあり得ないと言わざるをえない。

 

2005年5月17日
ayanori[高岡 礼典]