芸術性理論研究室:
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03.15.2009
METAFORCE ICONOCLASM VOLUME.4-4.7
帝王・創造否定
 

切開によって漏出する者は、干渉に対応する出来事が超越的であるため、孤独な帝王として扱われてしまいます。経膣分娩の拒みは事後に過程を痕跡化するものの、それが原罪的であるため描写困難な痼りとなり、関係を断裂・拒否する存在創発であるかのように映ってしまうためです。そこには多くのお座なりがあるので、このコラムでは前期の拙論『肌を切り裂く』において、原初創造の所在から血や臓器類を論外へと保留した所以と再検討を行ないます。

それではもう一度、まったき肌を切り裂き、傷=口を制作してみます。ナイフを握る執刀者は、突き刺し、腕を引くといった単純な動作によって、難なく創傷に成功することでしょうが、「突く」と「引く」に直感される構造変化は「窪んだ線形」であるため、軌跡が空になってしまう切開は、自己行為の読解に対してコードを幾重にもかさねなくてはならず、跳躍・超越的となります。ここに「二本の切断面」と「なぞる手の平」が加わり、脱血した(死)体への切開は創造化されるのですが、傷=口から「何か」が出現した場合は執刀者を制限してしまうため、創造否定となります。一見では「何か」が出現しようがしまいが、跳躍・超越的であることに変わりはないため、どちらも創造であるかのように思えます。しかし「なぞる手の平」が感じ取る「二本の切断面」の間が空であるか否かでは、触知文脈の構成が大きく異なります。空である場合は、切断面が指示詞を担うことによって間隙を描写対象へと昇華するのですが、本来、接触不可能なものを与件化できない触覚は、ここで視触関係の均衡を崩されてしまい、統覚による自由な再構成を要求しなければならなくなります。引き寄せられた過去の自己行為と視覚与件が、傷=口を知るための情報化へ重要な役目を果たすのですが、「そこ」にない『軌跡』と、そこにある「空」とを関係付け、『軌跡』によって制作されたにもかかわらず、軌跡周辺へと退いていった「二本の切断面」を手繰りよせる技は、都合よく矛盾を捨象する視触認識論の獲得を訴えなければ「空」は触れられず、「肌を切り裂く」は創造として懐念されます。

それに対して、出現してしまった場合は整合的な触知文脈に対して視覚文脈は非整合のままとどまります。しかし、どちらも直観的な『くぼんだ線形』とは異なり、過去の意味化に手間がかかります。干渉によって有形変化が起こった点は首肯できるものの、「くぼみ」とは真逆の「突出」になるので、執刀者は自身の手を疑ってしまいます。なぞる手の平は矛盾なき道に自己を含意させるのですが、稠密なる構造変化は視覚矛盾を現在触覚によってなだめられ、過去と現在をそれぞれ独立させてしまいます。この断裂によって過去は制作ではなく、単なる他(者)への干渉となり、現在は他(者)による反応と化し、創造を否定します。

どのような視覚的矛盾も、それが触れられるものならば構造再構成でしかなく、製作になります。原初創造は与件(対象)と視触間における三重の(完全なる)パラドクスによって無限循環し、物が有生化することによってのみ概念可能なセルフ・メディアなのです。でなければ、私達は他(者)を外へ置きながらも、出会うことができません。

 

2009年3月15日
ayanori [高岡 礼典]
SYLLABUS_2008