芸術性理論研究室:
Current
02.29.2008

臭覚与件について

 

多くの方々に懐かしく感じる「におい」というものがあると思います。毎日のように過ごした場面に特別主張することなく身を潜めるかのように漂っていた「におい」ですら、近似するものと出会うと、厳密にはそれとは異なるものであるにもかかわらず、瞬時にして当時の情動・感情変化までをも現在形で思い出してしまい、その場の視覚対象との非対応性に戸惑ってしまう経験は良くあることだと思います。擬似的な「におい」との再会によって暫定的に挿入された情動・感情系が次から次へと『思い出の気持ち』を現在化してしまい、対象不在の袋小路に消化不良が誘発され、立ちすくんでしまう無理解は論述困難な日常のひとつです。臭覚は呼吸器と浸透関係にあるので、否が応でも使用せざるをえない感覚器官なのですが、与件と価値の関係が文化的で非普遍的なため、目的論を斥けてしまい、また、メディア化しづらいので再考ができず、多くの学術域でもっとも研究が遅れ、手付かずになっている感覚になります。このコラムでは、似非科学的な通説の一切を括弧へ押し込め、形而上学的な認識面だけを書き留めておくことにします。

以前のコラム「触覚としての聴覚」と同様の描写法をとれば、臭覚も「におい」との接触によって創発する触覚の亜種として描くことが可能です。その「におい」を深く吸い込めば吸い込むほどに与件の情報化は進むので、肌理の触知のように、臭覚と「におい」の摩擦は連続する場合のみ与件化され、臭覚も文脈的かつ没単位的な感覚器官と呼べます。また、触覚のように「停滞による平衡」場面がないので、聴覚と同列の扱いを与えることは妥当のように思えます。

しかし臭覚与件は、その「におい」を発する対象を含めて考えると、独自の領域を確保していくことになります。前述したように臭覚が「文化的」と称される理由は、対象と与件(知覚)と情報(認識)の間に共時・自体的で不動の対応関係がないためです。同じ「におい」であったとしても、生活場面の違いで芳香にも悪臭にもなり、習慣という時間論によって容易に価値の再構成が可能であったりと、臭覚は同じ姿のまま、様々な相を見せてくれることは誰もが納得できる点であると思います。対象と与件の関係が動かしがたくとも、「対象/与件と情報」の関係は、のちの出来事による反省によって制御されます。この不安定な相対性は「臭覚対象の不在」という言葉によって表現されます。そこに咲いている「花」と花の「におい」は絶対の事実であろうと、認識された『花の香り』は「そこに咲いている花」へと必ずしも還元的に指示するとは限らないので、情報化を実行へと移す瞬間に、臭覚対象は不在化され、改竄的に構成されることになります。「そこに咲いている花」が『花の香り』を発する必然性など何処にもなく、臭覚に特化すると、それは他(者)も環境もない、経験論をすり抜けた超感覚・自体感覚と呼ぶべき余剰そのものなのです。

 

臭覚は、その身勝手さによって生存の必要条件にならないかもしれない消極項ですが、臭覚を一般的な臭覚として利用するには知性を必要にするため、心的であるともいえます。ここに美術家達が入り込む"隙"があるので、最後に疑似的な単位を設け、簡便化しておきたいと思います。

臭覚は触覚の亜種なので厳密には単位がないのですが、呼吸器との連動に着目すると、与件・情報的ではないにしろ、行為的な単位らしきものが浮き出てきます。喫煙者の方ならば、毎日のように実感されていると思うのですが、鼻(孔)は空気を吸い込む時だけ、与件を創発するのではなく、吐き出す時ですら与件を産みます。しかも同じ「におい」であるにもかかわらず、吸い込む時と吐き出す時とでは相互に異なる与件を構成し、「におい」の構造が単一であろうと、複合化してしまいます。一回の呼吸を臭覚の最小単位とした場合、二元的な構成によって、深い余情を構成しやすい文節性を臭覚には認められます。

そこには臭覚の物語があり、約束のない魅惑の智が読み取れるはずです。

 

2008年2月29日
ayanori [高岡 礼典]
2008.冬.SYLLABUS