芸術性理論研究室:
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02.12.2009
METAFORCE ICONOCLASM VOLUME.4-4.3
狂気について
 

敵であろうが、見方であろうが、静物であろうが、見境なく刃を向け、剣を振り下ろす者を、西洋ファンタジーは狂戦士(バーサーカー)と呼び、怯えます。第二・第三者が次回の行為選択を与件困難とするため、その存在は姿による恐怖を纏った不安なる者と形容すべきでしょう。多くの場合、バーサーカーは極度の興奮状態として描かれ、殺戮の最後は自滅によって幕を閉じます。日常の私達が時間(時代)や場所、他(者)への気遣いや自己の状態等々、複雑な相対的平衡によって、目的と遂行を調整しているものとするのならば、行為規範を絶対的に単一化・純化してしまったバーサーカーの機能は、ひとつの狂気構造なのかもしれません。しかし「気が狂う忘我」を自己制御を失った「暴走」と換言してみると、付け加えるべき形容は、まだまだあるように思えます。そこでこのコラムでは、当研究室におけるシステム・タームとして「狂気」についての直感を記しておきます。

バーサーカーはどこが「暴走」しているといえるのでしょうか。たしかに、自/他や創世認識における対応関係を構築維持できず、自制なく同一の干渉を継続する姿は非制御的に見えるのですが、その反面、閉鎖しているシステム側から観想した場合、ひとつのプログラムによって自己制御しているだけなので、なんら狂気に値するものとは思えなくなります。剣を振り下ろし続ける振る舞いが「対象を知覚したのならば、その対象を破壊する」というプログラムの表れだとすると、バーサーカーは対象知覚を条件とした干渉活動を行なっていることになり、意図的な行為者ということになってしまいます。「あれはグラスである、あのグラスを叩き潰す」「あれは人である、あの人を殺す」「あれは木である、あの木を切り倒す」明確な名詞認識を行なっていなくとも、破壊が対象を前提にしていることを知っていなければ、バーサーカーは剣を振り下ろせないはずです。

ここで、非狂人にもバーサーカーの真似事が可能になったので、その振る舞いを想像してみます。目に映るもの、触れるもの、可感域に侵入してくる対象を、ことごとく端から壊していきます。少しでも対象性を直感したのならば、必ず剣を振り下ろさなければなりません。まずは目の前にあるモニター、手にあるマウスやキーボード、机や椅子へと続き、やがては窓ガラス、壁へと矛先が向いていくことでしょう。健常者にとって日常の行為去勢を委ねている、それら対象群を壊すことは、一種の爽快感を味わえるかもしれませんが、おそらく、ながくは続かないことでしょう。いくら、当為命令を至上化した暫定的な約束事であったとしても、『疲労』にだけは打ち勝てず、剣を置く場面が訪れると思います。この『疲労』は身体的なものだけではなく、知覚・認知レベルの反復的行為が時間を描けないためであるとも推測・想像できます。バーサーカーは、この時間論という文脈的な単位の積み重ねを失っているために、ルーティンワークを可能としているのかもしれません。

通常は、システム/プログラムの作動によってつくられた産出項から、未見の可能性が拡大し、その気付きによってシステム/プログラムの再構成が行なわれ、前回とは異なる非同一作動・選択を行なっていく相が心的存在にはあるわけなのですが、バーサーカーはこの再構成場面がないということになります。産出項とシステムの関係が没化しているため、文脈に粘性が生まれず、振り向き、自己をつくり直すことがなく、バーサーカーは偏執的な原理主義的行為を字義どおり繰り返していくのでしょう。

つまり狂気とはプログラム自体がシステム域全体を牽引する自己他律を意味します。それは自我によって創発された『私』であるにもかかわらず、自我の制御を免れ、独自のオートノミーを形成し、自我から四肢を奪います。システム化したプログラムの背後に自我が隠蔽されてしまうため、狂気に阻まれ、他者は主体の表れへと辿り着けず、バーサーカーの振る舞いは即自/対自批判を超え、会話の手立てなく、憑依と形容されてしまうのです。

 

以上は、私が拙論『懐胎と分娩 3』で観ていた狂気の相になります。

 

2009年2月12日
ayanori [高岡 礼典]
SYLLABUS_2008