芸術性理論研究室:
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02.07.2008

相互接触について

 

左右の手の平を合わせてみます。左手は右手を触れ感じ取り、右手は左手を触れ感じ取ります。これは同一人物による同種の感覚器官の重ね合わせなので、自己浸透的なセルフレファレンスのように思えますが、厳密には異なります。左右の温もりが平衡同化する以前の段階が重要です。左手に感じ取られる右手の温もりは、決して右手には感じ取れず、同様に左手もそれができません。左右の手の平は、それぞれ独自の系を構成し、自己の面を記述外にしています。触覚だけではなく、自己を知覚してしまったのなら、それを感覚器官とは呼ばないのですが、触覚だけが知覚している最中に自己を含意させ、他の感覚器官にみられる受容性を超えていきます。このコラムでは、その含意性について再確認・体験してみたいと思います。

第二者に協力を仰ぎ、手を差し伸べてもらいます。そして、開かれた他者の手の平に、自己の手の平をのせてみます。その刹那、多くの体験者は他者の肌の肌理と温もりに『畏れ』を感じ観ることでしょう。それは、他者の様相という限られた知から、無限の延長(恐怖)を与えられるためではなく、初めて他者を知ると同時に、初めて自己を理解するためです。可憐かもしれない。逞しさかもしれない。他者の肌の温もりに感じる様々な様態・程度は自己の肌の強度をゼロ・ポイントへ措定することによる比較表出によらなければ把持できません。他者の肌をなぞっている最中に自己の肌を感じることができなくとも、概念域のどこかに自己の肌のニッチがなければ、「可憐さ」も「逞しさ」も知りえようがないはずです。しかしこれは単純な相対性ではありません。他(者)によって自己は変位しませんし、他(者)不在に自己の手の平の自己知などありません。「何も触れていない手の平」が『無』を意味してしまう以上、接触は相対的でしかない絶対の有限活動であり、他者の温もりの含意内容を積極的に延長する反省行為になります。

そして、この接触関係の曖昧さにこそ、『畏れ』の理由があります。「可憐さ」や「逞しさ」は自己の手の平の表層の弾性だけが構成しているのではなく、発現していない自己と他者に潜在するであろう『力』までをも積極的に引き寄せ、頼りにしています。決して現れ出ない“ force ”を、─力学的ではあるにしろ─ 力感なきささやかな一瞬の接触によって指示してしまいます。自己の構造表面だけではなく、システムまでをも含意してしまう接触は、容易に「予め自己を知っていた他者」を誤読できてしまい、他者の肌にキリストにも似た境界ある超越性を観ることができるはずです。換言するのなら、畏敬とは自覚・自信なき自己への怯え・自己圧殺のひとつといえるかもしれません。

 

そろそろ、先程から重ね合わせている他者と自己の手の平の温もりが平衡してきた頃でしょうか。もしも自他の境界を失いかけているのなら、ここで不意に第二者に自己の手を握りしめてもらいましょう。まわり込み、つつみ込んでくる他者の親指と稜線に形容し難い被超越性を感じ、流れ入るかのような他性にふるえることでしょう。

 

2008年2月7日
ayanori [高岡 礼典]
2008.冬.SYLLABUS