芸術性理論研究室:
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01.29.2009
METAFORCE ICONOCLASM VOLUME.4-4.1
焔について
 

夏の夜空に舞い上がる火の塊は、何百倍もの大きさへ弾け飛び、花火になります。中心から幾千もの火の粉が生まれ、四方八方へと飛び散り、やがて『力』を失い、それぞれが地(面)へと舞い落ちていきます。空中で燃え尽きてしまうものもあれば、打ち上げの地点周辺へと戻ってくるものもあり、花火という構成的構造は、終章において単数化された主体の死だけが語られるのではなく、構造を構成していたエレメントひとつひとつが自律的な独自の系を持っていたことを明かしながら、死を幾重にもかさねていきます。「私」が死んだ後の肉片、君主を失ったあとの羊。ファーストオーダーは同等の等級でありながらも、交叉することのない、もうひとつのファーストオーダーを前提に据え、エレメント化することによって、セカンド以降の系をプログラムできる非自立的な自律者です。

そんな主奴と系についての基礎教育を行ないながら終わる花火も、頑強な火の粉によって、地上に「焔」をつくります。はらはらと舞いながら無事に地へと辿り着けた、ちいさな火の粉は地上の可燃物を糧にして、再度「上昇度」を蓄え、天を目指します。ゆらゆらと、めらめらと、赤く始まる焔は構成的構造をもつ花火とは異なり、単純な組織態です。外炎・内炎といった部分・階調によって温度や色の違いがあるものの、裸の人にとって、それは不定形な光と熱でしかなく、明確な認識単位をすり抜けてしまいます。そのため、多くの原始自然学において、それ以上の分解と遡源が禁じられた元素として数えられてきたのでしょう。

焔は燃え盛る『力』と、下から上へと向かう「方向」とを兼ね備えたベクトルであり、「糧」を必要とするため自体的に存在する水や土とは元素=性が異なります。焔だけが動と静、始まりと終わりを物語ってくれる「者」になります。それは強度批判によって観察記述の妥当性を閉じ込め、描写困難な隠蔽を際立たせます。そして焔は性質的に見ることはできても、立体的な触知把持ができず、しかしながらも「熱・ぬくもり」だけは触覚器官をふるわせる特殊で曖昧な経験的対象であるため、「動因自体」や「システム自体」の構造的比喩になりやすく、気息や不死の魂の前提になり得たと考えられます。

水の流れ、土砂の崩れ、水平軸上の出来事に還元される、それら物理に対して、焔の上昇は天への野心を唯一担っています。自律的に垂直軸を昇る日常的な自然現象は、焔が最も雄弁であるため、動因が帰る場所として上空を天=化する理由は容易に制作可能です。火の粉は地上のあらゆる物達を焔に変えて、燃やし尽くし、天へと連れ去り、消えていきます。

ここまでは、火についての単純な寓話なのですが、火の物語はここで終わらず、事後に謎を残します。物から動因を吸い出し、焔をメディアにして昇華を果たした燃焼劇は、灰を散在させ、地(面)を拡げます。手の届かない天の位置価によって不可逆を受け入れざるを得なくとも、原始質料なのか、第二質料なのか、それとも新素材なのか、判断困難な「灰」が指の間から足もとへと堆積します。そこから面前、はるか彼方を埋め尽くし、触知可能でありながらも把持不可能な地上を面化し、地(面)を現前させていきます。焔によって、すべてを連れ去られた後の立脚者は、何者とも結び付けない繋辞自体との出会いによって、宙吊りを彷徨うことでしょう。

 

2009年1月29日
ayanori [高岡 礼典]
SYLLABUS_2008