芸術性理論研究室:
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01.23.2007

拡大身体の可能範囲

 

前回のコラムに引き続き、ふたたび両方の眼を剔出します。しかし今回は両手でえぐり出すのではなく、そのまま視神経を空想的に延長していきます。もし仮に5000マイル以上の、その先までそれを延ばすことが無事にできたのならば、その被験者は空腹を我慢しながら母親の後をついていくチーターの子供達や氷原で求愛するペンギンの番いを自身の肉眼で捉えることができるかもしれません。同様に神経系を傷つけることなく両手首を切断し、彼方へと配することができれば、それら動物の毛並みや温もりをその手で感じ取り、愛おしさに感涙することができるかもしれません。

本有域と浸透的に隣接する所有域にある感覚器官を用いての経験は現代技術を利用しての拡大身体によるもの以上の意味があります。顕微鏡や望遠鏡、変調器を用いてのエンコードはそれを見ても聴いてもいないということです。人の知覚域外へと延びていく比例を識域内のそれと対応させたとしても、通常の対象知を意味することはありません。ここには無限微分の可能性からのパラドキシカルな誤謬があります。文脈は必ずしも『意味内容』を意味しません。そのために私達はいつもそれ自体へと到達しようとして手を伸ばし、足を運ぶのです。それがテクノロジーへの憧憬と似ていたとしても、自身の器官を直接的に刺激する体験には換言不可能な知の自明性があります。自己の身体図式には動かし難い臨界点があるはずです。

そこで前述の実験に戻って再考してみます。特化された感覚による経験は何を意味するのでしょうか。恐らく出会う者は積極的なアプローチの不可能性によって、一方的な空虚感に苛んでしまうことでしょう。何かを経験したにもかかわらず、何者とも出会ってなどいなかったことを知るだけだと思います。これは顔の表情や発話によるコミュニケーションの不在・不可能だけからくるものではありません。「出会い」とは認識主体の現象域に対象が表れれば良いわけではなく、無差別に相互作用があれば良いわけでもありません。その過程内容に相互主体の共約を結び合うことができなければ、出会いを意味することなどないのです。間近にチーターやペンギンと接することができたとしても、彼/彼女らは被験者を主体単位としてなど扱ってはくれないことでしょう。猫や犬は琥珀のような瞳や漆黒の眼差しを実直に振り向けてくれるために、私達は愛玩という言葉を捨てて、家族であると思えるのです。『他者は私を知っている』と『私』が思えない出来事は邂逅と呼ぶにはほど遠いものなのです。

 

身体を構造的に拡大しても自己の延長は意味しません。身体図式の中心を担う胴体がなければならないという命題は、それを自己の身体であると同定するには、統覚距離といった表し難い身体強度が潜在していることを示唆しています。延長された眼球はもはや触れることも、自身の手足を見ることもできません。同様に離れた手は未知との出会いを知ることもできなければ、自身を慰めることもできません。器官が限局や特化を排する均衡によって相互監視の関係を構築しなければ、自我は新しい自己を獲得できたとしても日常の自己を失ってしまうのです。

ここから、システムは次回の行為・作動を可能にするようにではなく、次回の出会いを可能にするように振る舞うと定義を更新していきたいと思います。

 

2007年1月23日
ayanori [高岡 礼典]
2007_冬_SYLLABUS