芸術性理論研究室:
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01.15.2007

自己把持の可能性

 

右手で右の眼を、左手で左の眼を、それぞれの眼球を剔出してみます。纏つく外眼筋を切断し、眼球の裏側からのびる視神経を傷つけないように注意しながら前方へと引き出し、仮に、自由に向きを変えることができるくらいに神経を延ばすことに成功したのならば、そこで両方の眼球の瞳孔を向かい合わせてみます。述べるまでもなく、右眼には左の眼が、左眼には右の眼が、環境映像の部分に含まれることでしょう。これは正像を映す特殊な仕掛けが施された鏡の前に立つ以上の意味があります。一見ではどちらもセルフ・レファレンスの種であるかのように思えるかもしれません。直接的であろうが、鏡面によるエンコードが仲介していようが、「自分で自分の姿を見ている」ことには変わりがないためです。たしかに両瞳孔が同軸上にある場合は自分を写したスティルを眺めることと同義といえることでしょう。しかし眼球剔出の例はその後の再配置次第によって、鏡像や写像を大きく超えることになります。

その映像の限界、フレームの末端に片方の眼球の視神経が延び出す箇所を捉えるように相互の眼球を回り込ませてみます。私達は日常生活においてピントの合っている焦点しか見ていないかもしれませんが、意志による関心操作によって、視覚認知の中心から認識の焦点をずらすことができるはずです。視覚映像の中心にピントを合わせつつ、ぼやけた境界映像に関心を移動することはそれほど難しくはないことだと思います。幸いにも人の眼球の水平視野は100〜160度といわれているので、ここではその境界映像にお互いの眼球の裏側が映ることになります。これは左右の眼が直接的に自己に帰属する器官であるため、疑似を超える死角把持といえます。左眼を見る右眼も、その逆も、期待可能な主体視点を経由することによって自己言及を完全化することができます。現象学的な自己還元が少々空想的な嫌いがあったのに対して、構造的なそれは造作なく公開可能といえます。

システム論の領域ではセルフ・レファレンスは一般的に自律的なダイナミズムを産むドライバーとして有効な概念布置がなされています。超越論的でしかないシステムは何も超えることなく、何者にも超えられることなく自己(他者)を制作していかなければならないためです。それはシステム的には妥当なものかもしれません。しかし構造的には一体どのような有効性があるのでしょうか。普段、私達が二次元の映像でしかない与件に空間を見出せるのはシンメトリーではなく、左右の絵が近似の関係にあるためです。統合化されたひとつの差異が視覚的な延長性といえるでしょう。二つの眼球が回り込む時、左右の眼は左側へ視神経の束が延びていく似たような映像を見ているので、恐らくここで『単一化された差異』が表れるはずです。左右の眼が捉える背景はまったく異なるものであるため違和感があるかもしれませんが、それを度外視できれば自己にパースペクティブを与え、対象化し、自己現前化へと成功するかもしれません。

しかしここには構造操作による自己認識の穴があります。ひとつのものを二つのものとして見た後に、ひとつのものとして観る行為/認識と、二つのものをひとつとして観るそれは意味が異なります。前者は両眼のコードの共通性によって対象からではなく対象への情報を増大する積極的な行為/認識ですが、後者では必要以上に情報を縮減し、その後の行為を不可能にしてしまう誤謬でしかありません。これは単なるフリーズでしかなく、動因にはなり得ません。なぜなら一枚の映像を見ている二つの眼球は二つの手によって支えられることにより、常に二性から免れ得ないためです。ここで片方の眼を潰せばよいと考えられる方がおられるかもしれませんが、その際に潰した眼球の裏側はもはや死角を意味しないので説明を必要としないと思います。

このコラムでは構造的セルフ・レファレンスによるパラドクスは点を産み出してしまう反動因であり、自己言及はシステム域・論理段階のみに許された概念でしかないことを確認しておきます。自己は他者と自我にバインドされた臆病な子供のように私達の袖を牽引し続けるのです。

 

2007年1月15日
ayanori [高岡 礼典]
2007_冬_SYLLABUS