芸術性理論研究室:
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12.22.2006

不即/相即

 

西洋哲学史には語り尽くされたタームとして「相互浸透」というものがあります。ひとつにもふたつにも見える両義的な対象や認識相を形容する際にそれを使用します。たとえばオレンジ色のレンズが付いたサングラスを掛けたとします。その瞬間、それまで見ていた世界色調は一変し、すべてが暖色へと偏向します。朝日は夕日になり、青々と生い茂る木々の葉は紅葉の季節をむかえたかのように見えてしまいます。しかし「サングラスを掛けた」前場面を忘れていなければ、人は特に難儀することなく色別認識のコード調整に成功し、夕日を朝日として、紅葉を新緑として、ある程度までは同定できるようになります。淡いオレンジ色の紙に見えているにもかかわらず、GreenとBlueをさらに加法混色するかのようにWhiteと対応させ、真っ白な紙として観る。これが日常経験しやすい「相互浸透」についての主たる例になります。そしてこの体験は私達に古来よりある概念にも多様な種類があることを教えてくれます。

このコラムのタイトルで示唆しているようにアンビヴァレントな視覚経験は大きく分けて二種あります。相互に対面しつつも決して別離することのない分化不可能な不即不離と、さまざまな要素によって構成されている混合体であるにもかかわらず、切り離すことができない相即不離がそれになります。前者は知覚的にそれぞれを経験することができますが、後者は完全に脱経験的な知識・認識域での現象になります。サングラスの例では知覚している色を見ながらも対象とレンズの色をも観ることができるので、ほぼ不即的浸透がしめていることになります。しかしサングラスを掛けたまま未知の対象と出会った場合は、区別の可能性を知っているにもかかわらず、区別することができないといった相即的浸透が起きてしまいます。今まで一度も見たことがないものとの逢着による混色は、それが混色された色であることに気付いても、対象自体の表面色が分かりません。同系の色どうしならば推測できそうですが、補色と向き合ってしまった場合はグレーがかってしまうので、予測困難になります。オレンジ色の場合は「青」を正補色にしつつ「緑と紫」もそれに含むので、半分以上の色相を失ってしまうことになります。この相即的浸透をここでは『相即的不即』と呼ぶことにします。それは未知の既知化が絶対的に禁止されているわけではないためです。

この相即的不即がもたらすディレンマは経験域に常に自己(バイアス)を含むという意味で重要な倫理になります。裸の眼による不即や相即は対象だけの考察で「相互浸透」であることに辿り着くことができますが、サングラスを掛けている時のような相即的不即への到達突破は自分がどのような素描原理を採択しているのか予め知っておかなければなりません。私達が未知のものに包囲されている以上に、私達は何者かにならなければ何も知ることができない存在であることに留意できるのならば、このディレンマをいかに確保するかが、どれほどに肝要なものなのかご理解いただけると思います。

 

2006年12月22日
ayanori [高岡 礼典]
2006_秋_SYLLABUS