芸術性理論研究室:
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12.18.2008
METAFORCE ICONOCLASM VOLUME.4-3.8
印なき緋色の徴
 

悲しくて流す涙は災いの感情に対応する表現であるにもかかわらず、私達の視界を奪い、思いどおりの所作対応を困難化し、厄を深く塗り込みます。自己の位置価を決定するための情報は視覚から多くを得ているので、感涙は喜びの際も挙動停止を勧誘します。生物行動的には猫の毛繕いのように高ぶった感情を平衡化するための時間確保ということなのでしょうが、視界を奪うやり方は、「外敵」という概念が前提になっている学派には通用せず、機能効用の説明は「毛繕い」ほどの説得力はありません。そのため、涙の未義は多義的となり、詩情を潤す契機となってきました。

流れ出る涙によって環境を失い、他を拒み、人は『ひとり』であることの自己触知へと誘われ、多くの内省を誤読してきたのです。文字ひとつにすら意味など内属されてはいないように、本来、可感的な対象にも意味や理由はありません。もしも、構造的対象群や与件自体に『意味や理由』があるのならば、私達は読解することなく、それを知り、誤謬すらないことになります。それが意味あるもの・記号と呼ばれるには、読み手からの帰属と帰属に関するコンセンサス(文字)が必要になります。厳密には間主観構造を無限に自己へと還元させる営みによって、かろうじて維持可能なものであり、それは相互作用を描く独話になります。そのため、可感的経験の描写をひとりで行なう間ですら、『他なるもの』が必要となり、『先入見』という概念措定を要求してしまいます。現在系を中心的な形式プログラムとして据えている当研究室において、カント流の悟性は思想以上の意味がなく、また、現代システム論的なリスク(予見可能な災い)も「現在を生きていく存在」には情報にも里程標にもならず、脱もしくは没・逐次性が必須項となります。つまり「考える力」と「考えない力」が生には必要ということなのですが、この平衡が崩れる時、先入見の強度が増し、蒙昧主義が生まれ、不必要な苦がつくられてきたのです。

その筆頭が『血の色』です。種固有の可視光を人のごとく微細に区別していないといわれる動物らも赤色だけはとらえているとする説はたびたび聞かれることと思います。それが真か偽かの吟味は生物学へ委ねるものの、この説には人なりの論が立っているので、首肯性があるといえます。述べるまでもなく日常生活の中で出会う赤色は「果実」と「血液」の色です。前者は「送る生」を可能とし、後者は大抵の場合「未来の死」を意味する比喩として読解されます。どちらも生存の可能性を直接的に増減させるので、赤色のコードは行為・価値規範として採択すべきものになります。ここで重要な点は、ひとつの色相のグラデーションが生と死をとも説明してしまう連続繋辞性にあります。潜在する血液がつくる淡いピンクは健康を意味し、他の種族が流す血の色は肉食動物にとっては「食」を意味します。位置と明度によって、意味・価値が反転してしまうわけなのですが、血の色は食に関しているが故に、自己の傷は痛みだけで良いにもかかわらず、赤色と浸透関係となり、「私が流す血の色の痛み」というカテゴリーミステイクは重要な規範となります。

しかし、私達の実生活において血液そのものは災いだけのものではありません。経血や悪露は健康であるが故の血の色であり、痛みもそのとおりになります。なぜ血液を赤色として認識するかは答えられないにしろ、『血の色』が危険の記号ならば、「経血や悪露」の媒体を血液に担わせる生存的理由は不明確のように思えます。これを『災い』なき「災い」と呼ばずして、何と形容すれば良いのでしょうか。

 

付記:ゲーテから河本を通じて、現代の色彩学では、赤と紫の親和性の不可思議については良く指摘されるところです。赤外線から始まり、紫外線で終わり、光の波長はその外部にもあるにもかかわらず、色相を線形記述する経験科学に対して、芸術や認識(心)は十二色相環に代表されるような円形描写を可能とし、乖離した二つの点である赤と紫を結び付け、馴染ませてしまう共約不可能性が色の世界には並列しています。このコラムでは「なぜ結節されるのか」ではなく、「なぜ線形化されるのか」という問いの立て方へ変更を促す主張を孕んでいます。赤が色の始まりならば、それは生の始まりを意味し、波長による色相のパーミュテイションは、生存活動に有効な位階・ハイアラーキーということです。十二色相環自体への問いは心自体への問いに等しく、答えが容易に出ないのは当然のことで、それは個々人が形而上学的に解決しなければならない問題なのです。

 

2008年12月18日
ayanori [高岡 礼典]
SYLLABUS_2008