芸術性理論研究室:
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12.08.2006

無題と匿名

 

私がまだ美術活動期にあったころ、作品のタイトルを無題とする行為は無責任な表現者による怠慢だと思っていました。とくに美術や音楽は未制度の言葉を並べるコミュニケーションになるので、理解の糸口をひとつでも増やそうとしない自己封殺は他者を知る力がない稚拙な戯れのように思え、許されざるタブーとして自身の枷にしていました。それが如何に自己を中心に据えなければならない芸術活動であったとしても、他者一般の概念すらない者による行為では「自然美と芸術」の区別を不必要にしてしまいます。

しかし資本主義によって量産技術が拡充された現代は複製されたモノ達によって古典的な唯名論が無効になりかけてしまい、それに抗う気概のない似非アーティストらは今日も次から次へと名もなき徒花を咲かせ続けています。またインターネットが普及した私達の時代は筆名すらない匿名による被害が蔓延しています。そこでこのコラムでは無題と匿名主義について述べておきたいと思います。

作家名(所在)と作品のタイトルを求める倫理は統合律が既にある時代に生まれた者らによる病かもしれません。それ故に現代において基本情報の全隠蔽的な創作活動を続ける作家達は自由に振る舞う本来的なアーティストであるかのように思われる方がおられるのではないでしょうか。明確な著作権の主張もなく場に痕跡を残していく関わり方は没双方向的なアプローチによって、コミュニケーションの継続性を無効にしつつも、そのひとつであると思えるためです。しかし理想的なコミュニケーションとは伝達/被伝達がそれぞれ一回以上のレスポンス期待ができるものを指します。表現者に最初のアプローチに対するオーディエンスの反応、そしてそれに対する表現者による回答。前者の反応によってオーディエンスが、後者の回答によって表現者が、それぞれ他者を知ることができる観察者として社会的に定義されます。一見すると表現者は初回の作品提示の段階で他者一般の概念を懐念する者であることが示されているかのように思えます。それが慣習化された言語記号や人の文化を描いたものならば尚のことだと思います。しかし表現の一人称がコミュニケーションを意図したものといえるのならば、私達は独り言を呟く自己確認すら許されないことになります。記号とは本来的に使用者が自由に意味を定義できる形でしかないものなので、私達は時勢にあわない言葉であったとしても様々な想いを込めて、詩的・文学的表現を行うことができるのです。ですから、かつてウェーバーが述べていたような誰にも見せることがない日記については、限局的にはコミュニケーションであるとはいえないはずなのです。絶対性は自己を超えられないことを忘れていなければ、作家はオーディエンスからの問いや批判である定義項を回答することによって自己へと結節し、初回のアプローチを被定義項化しなければ、それをコミュニケーションを意図した作品とは呼べないのです。

ここで相互作用(ハンドシェイク)は人にとってのダイアローグではないことが理解できると思います。つまり最小のコミュニケーションとは第一者が非連続的に二回の作用を行なうものであり、総合的には作用を表す線が三本なければ単位とはいえないのです。

そこで前述した無題・匿名(無記名)の活動が社会的であったとしても、会話ではないことが規定・定義されます。誰が何のために行なったのか理解するための端緒がないものや、レスポンスの期待が不可能なものに、人は問いを立てることがないでしょう。そしてこれが芸術文化の遅延・停滞やネット上のBBSにおける醜悪なまでの未発達さを招き起こしている元凶なのです。

自己を隠すことによって己の真理を絶対化・普遍化して守っても、誰も己を個として、人として対象化し、尊重してはくれない。そして何を行なおうとも、寸毫の社会的意味すら作り残せないということです。

 

2006年12月8日
ayanori [高岡 礼典]
2006_秋_SYLLABUS