芸術性理論研究室:
Current
12.05.2007

手紙と論文

 

文字をならべ、語をつくり、その語を指示する文法を用いて文字を綴る作為は、その多くが秘密めいたモノローグの中で営まれる自己愛撫です。しかし「誰かに読んでほしい」もしくは「誰かに読まれうる」作文は、著者という帰属概念の約束事の中でのみ未分化を謳える第一的な表現行為になります。なぜなら、そこでつくり出されるすべてが確かな可感対象として作品の面前に現れ、再会への断続文脈へと組み込まれるためです。素材を必要とする表現の本質は自己分化(反省)でも、システムの残滓でもなく、単なる他(者)制作です。ここには無機的な作品達がスコラ的な超越論性を内属しうるひとつの希望と不快があるのですが、考えなく構成しても、そこへと到達不可能であることは述べるまでもなく、作者は自明的な心的論理に従う必要があります。

それを学ぶには「手紙と論文」が最良であるように思えます。それぞれは同じ文章であるにもかかわらず、制作原理が決定的に異なります。「オートクチュールとプレタポルテ」とでもいえば簡単なのですが、密室での制作には完全に当てはまらないので、哲学的な道具となるように分解してみます。

自分だけが読めればよい日記とは異なり、「手紙と論文」は自他を含まなければならない外延のひろさがあり、様々な他者を概念構成しなければなりません。まず、必ず宛名があるように、手紙とは現前しうる特定の誰かを前提としなければならない条件がありますが、論文はそれを厳しく排除しようと努める必要があります。内容や文末表現だけに、その違いがあるわけではなく、前制作的な前提段階における他者の質が大きく異ならなければ、手紙と論文は書けない技になります。手紙は他者制作であり、論文は他者一般制作といえます。そのため、特殊内容を手紙には含められ、論文は普遍のみをテーマにしなければならなくなるのですが、厳密にはその特殊内容を含まなければ手紙は手紙として成立しません。宛先と送り主の間でのみ共約できる部分がなければ、誰に送っても不都合のない公文書になってしまい、時間差のあるコミュニケーションでは受け手に「他者からの対自性」がうまれることなく、書かれた手紙は何も結びつけることなく、ぞんざいに扱われても仕様がなくなります。自分が向かおうと試みている相手がどのような趣味嗜好を持ち、どのような分野に所属し、何を信条とし、何をやろうとしているのか先行的に構成できる『想い』がなければ手紙は書けないので、「他者を知る力」を試されるテストになります。一流の表現者が手紙上手といわれるのもそのためです。特殊を知らなければ、普遍である作品はつくれません。

その先行性によって手紙を書く力は表現者にとって必須となるのですが、手紙が書けるからといって、即論文制作を謳えない所以があります。「他者を知る力」によって書き始めた手紙は目的遂行的な作業になるのですが、有限である私達が普遍を語れるのは「便宜上」を超えられず、常に前提を省みながら進めていかなければならないので、原理不安定のまま行なわれるオートポイエティックな論文は必然的に目的制作的となり、遅々として進まない傾向にあります。

 

2007年12月5日
ayanori [高岡 礼典]
2007.秋.SYLLABUS
 
QRComing Soon