芸術性理論研究室:
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12.01.2006

産出について

 

現代のシステム論では組織体の自動的な有機性を形容する際に「自己産出」という術語を使用します。これは伝統的な西洋哲学では見つけられなかった重要なタームです。そのため私も同一性を保ったまま自己を再構成していく心的システムの自律性を説明する場合、無反省に諸先輩方に倣ってきました。しかしパーツもボリュームもない心自体を「自己産出」という分化・分与的意味(出る)を含む言葉によって論述するは乱暴すぎることに気付きました。そこでこのコラムでは使い古しのジャーゴンに修正と注記を加えたいと思います。

 

私達の生活世界では様々な生成現象を観察(期待)することができます。新しい生命や星の発生。子の出産から作品の制作。それらは単純に構造再構成の一語へと還元できるのですが、すべて同じ性質であるとはいえません。たとえば生命が自ずと誕生したとするのならば、そこに制作者なるものは介在していませんが、私達の人為による生成活動において「作者不在の被造物」などありえません。ここには自然と人工(非自然)を区別する決定的な自律/他律のコードがあります。また作者がいる場合でも「工場での製作」と「出産や細胞分裂」とではフローが異なります。前者では作品の素材を外部から調達し、加工し、作り終わった後は作者の構成要素が特に減少することなく、製品(他者)が生まれ出るのに対し、後者において一時でも作者自身の血肉(エレメント)を分け与えるシークエンスが無いなどとはいえません。それは形相的原因の提供者から質料までをも奪い取る生成現象といえます。これは「生む」と「産む」の区別になります。

ここでコードが二つできたので、組み合わせによって私達は四種類の生成概念を得ることができるのですが、すべてが利用可能なものなのか吟味する必要があります。作者介在の「生成」は上述の説明でみたので、残るは自律的な「生/産」ということになります。「自律的生」に関しては素材が自動的に構成過程を形成する発生場面の形容詞として使えそうですが、「自律的産」とはいったい何を意味するのでしょうか。作者不在の子などといったものが存在しうるのでしょうか。

たとえば類が増える大進化、種が派生する小進化はどう形容すべき生成現象なのでしょうか。それらが突発的な事故であろうが、漸次的な策略であろうが、親による子の生成なので他律的産のように思えます。しかし親子とは必要条件である類を両者が具えていなければならず、類概念の超越論性によって両者を結べないものを本来親子とは呼びません。私達が代謝を出産と呼ばないように、涙を流してもそれは自身の嫡子ではないということは説明を必要とはしないはずです。それらは産的生とでも呼ぶべき曖昧な生成現象ではないでしょうか。つまり小進化に関しては他律的産であると同定できても、親と子が構造の構成原理を共有していない大進化の場合は、前者のグループへとカテゴライズするわけにはいかないということになります。そしてここに自律的産という言葉が当てはまりそうに思えます。

親の介在が認められつつも、作者のいない自律的産を字義どおりに解釈すると、それは被生成者が原因を超越することによって、自ら自己を組織していく決定プロセスによる形成史ということになります。一般に作者を必要とする制作活動において作られたものは作者の意図がどこかに反映されているのですが、類概念の共有性がない自律的産において作為性は含意すらしていません。そのため自律的産にとっての原因は刺激以上の意味があってはならないことになります。

そして上述のメタレベルはまさに現代システム論における自己産出と同義であり、妥当性のたかい言葉のつくりであることが分かります。しかし冒頭で述べたようにそれを『産=出』と呼べるのは、後の段階で自己へ帰属・構成できるものであったとしても、つくったものを手に取るように観察できるような自己客体化の場面がある科学よりのシステム論のみにしか許されません。

心の変化とは部分(エレメント)なき没知覚的な自己への適応です。それは紛れもなく産出的な生成ではなく、不可侵の洶涌現象です。このコラム以降、私はこの局面の形容に自己産出ではなく、より概念的な『自律的産』もしくは『自己産湧』などといったタームを用意し、使用したいと考えています。

 

2006年12月1日
ayanori [高岡 礼典]
2006_秋_SYLLABUS