芸術性理論研究室:
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11.28.2007

背後について

 

流し撮られた映像がモニターに映っているとします。視線と動きは垂直の位置関係にあるようです。しばらくの間、坦々と何気ない都市の街並が左から右へと一定の速度で流れていきます。すると不意にフレームが後方(流れていく方)へと移動しました。映像の流れが一瞬止まり、ゆるやかになったために、それが分かるのですが、どうやら事故的にカメラが動いてしまったのではなく、意図的に誰かが操作したようです。なぜならフレームが動き始めてからは、その中心に同一の対象が固定され、映像に焦点なるものが表れてしまったためです。この時に初めて「機械が見ていた映像」が『人が観ている映像』に変わり、一定不変は『人』を表現しにくいことが分かります。目の前を通り過ぎていった対象を振り向き追跡する瞬間にこそ、心的存在の核心があります。

 

始まりは誰もが即自的です。あるがままに見て、与えられるがままに受け入れ、感じ思うがままに発言していくことでしょう。無垢な直情的振る舞いは構成原理が単一なので単純な美しさがあります。しかしその美しさの多くが排他的なファンダメンタリズムでしかなく、賛同できない者はその「振る舞い」の意図すら知ることができず、一方的に敵対させられてしまいます。もしくは、一方的に自らを敵対へと布置せざるをえなくなります。これは自然美と同義なので、ここから『人間(人類)』を映像だけで表現するための条件のひとつが分かります。興味ではなく、懐疑(否定)の場面がなければ、知的存在は表現できません。

カメラの例に倣うなら、同一対象を追跡し続けるセンサーを搭載したビデオカメラを用いて、同じように焦点をつくり出したとしても、『人が観ている映像』にならないことは容易に想像がつくはずです。単に対象を追いかけても『興味』の表現にはなりません。

日常生活では気付きにくいかもしれませんが、人間工学的に人の焦点は数秒も一所に留まってなどいません。人間の肉眼は同一対象を寸分違うことなく見続けられないように構成され、私達は激しいブレのある視覚環境を与件として生きているのです。それでもなお、同一対象を見続けようとする努力は「不断の追跡」ではなく、「不断の回帰」といった形容矛盾にこそ妥当する運動です。見失っても、また同じ対象を見ようと追いかける瞬間の繰り返しによって、前景化は強度を得て、単位化していきます。認識域における順列変更によって、他者の同一性をつくり出し、やがて「振り向き」は自己背後存在の可能性に気付かせ、自己を数えられる存在へと変更していきます。

原初的な超越視野を「一」へと超越する体験。何かを、誰かを、追い求めて、振り向き、振り返り、いつか気付く目に映らない自己の身体延長。その形式を充足しようと必死に手を伸ばし、身をくねらせ、「背中」の存在確認へと臨むひとり遊びは、初めての「自問」経験であり、初めての「認識だけでの世界一変」として幼年期の思い出のひとつになっていることと思います。

「振り向き」という観察欲求は、正しく世界を分け隔て、自己を縮減し、不自由なる自由に感動という修飾を添えてくれます。

 

初めて口の中に穴が開いていることに気付く瞬間や、初めて自分の肛門の存在を詳細に確認する体験等にある素朴さや執拗さの面白さを覚えている方は、成人してもラディカリズムから抜け出せずにいることでしょう。

 

2007年11月28日
ayanori [高岡 礼典]
2007.秋.SYLLABUS
 
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