芸術性理論研究室:
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11.24.2006

原因と結果の弁証法

 

先人達が人類史の原初段階において事象の起きる理由を問いに立ててしまった時から歴史年表の上には原因をめぐる論争で埋め尽くされています。当初より無限に遡及することが可能である人の認識域に対して、起源的概念は反してしまうものであることに気付いていたので、原因説〜神〜無意識と数えきれないほどのファーストオーダー(神話)が私達の教科書には並んでいます。それらは制御欲とハザードへの不安の拮抗が産み出した歪んだ学知であり、人を謳える論拠でもあるのですが、思想の域を超え出るものではないために背反の勢力が後を絶ちません。

たとえば部屋の照明をつけてみます。なぜランプが灯されたのでしょうか。それによって通電したからでしょうか。ではなぜ誰かはスイッチを押したのでしょうか。なぜスイッチは取り付けてあったのでしょうか。なぜ電気は流れ、ランプが光源となり、明るくなるのでしょうか。なぜ光は存在するのでしょうか。

「なぜ/どうして」はそれがいかに特殊事項に関するもの、あるいは原因からの観察であったとしても普遍概念への問いへと発展していく超越性を内属した疑問副詞です。ですから「なぜ」を含む対話を成立させるには思想の共有が前提にならなければなりません。しかしそのようなことは事実上不可能に等しく、私達の日常には尻切れのコミュニケーションが多く遍在することになるのです。「なぜ」は知的探求へ挑ませる大切な品詞になるのでガイドラインの主張など行いませんが、ここで空虚な会話を少しでも内容ある議論へと昇華させるために、ながく続いている原因概念についての誤解を解き放ちたいと思います。

一般に社会的コンフリクトが発生すると、結果から原因をめぐって巷は騒ぎ立てます。そして必ず誰かの所為にして、自己を肯定するペダントリーが跋扈するのですが、多くの論述の至る所に誤りが散見されます。たとえば快楽的な殺人鬼の人をあやめた理由は残虐なエンターテインメントや凶器になりうる道具が入手しやすい社会環境におかれていたためなのでしょうか。それとも遺伝子構造が殺人を犯すように配列されていたためなのでしょうか。あるいは愛情を見出せない環境で産まれ育ったためなのでしょうか。行為者の自律/他律の議論を不問にしても、原因は自体的に結果を決定するものではないことに気付かなければなりません。

たとえを変えてみます。あるメーカーが商品を発売し、よく売れたとします。このような場合も世俗の方々は手柄や評価をめぐって懸命に挙手してくれるのですが、誰がその原因を担っているのでしょうか。アイディアを出した企画やその前段階のマーケティングでしょうか。それを形にしたデザイナーやエンジニアでしょうか。商品を作るために資金を調達し、流通させた渉外や広報等の営業・ディレクターでしょうか。それとも会社の運営を指揮した取締役でしょうか。もっといえば、それを商品として認めた消費者・エンドユーザーなのでしょうか。私達はこのような良くある議論で挙げられる項目のどれかに原因を見出した時、どれひとつ抜きにしては、それを原因として同定できないことに気付く必要があります。会社形態のような組織活動はそれを知るためには格好の場なのですが、大抵の会社員の方々はそれを知り認めようとしません。そのような方々をフラクタルな倫理を怒号する者といって批判したくなります。原因が結果までをも司っているのならば、出世を目論むサラリーマンは独りでアイディアを出して商品を作り、売り、独りでその商品をすべて購入するといった絶対評価のループを形成し虚勢を張らなければならないはずです。

 

王は民衆に慕われるから王でいられ、民衆は王によって支配・守られているから民衆でいられます(主人と奴隷の弁証法)。それが社会的であろうと概念的であろうと、関係性がある世界に単体で自立して存在できるものなどひとつもないのです。この人口に膾炙しているかのように思える教科書的な定説が意外に流布されず、またそれに徹底した研究活動を行う学識者があまりにも少ないので、再三繰り返さなければなりません。それはあらゆる決定因子の無効・払拭を意味します。

原因とは未規定・未定義な何らかの結果へと事象を動かす「きっかけ」でしかない未決定な不動者です。原因が結果までの文脈史に並ぶ全項目を内に含み、複合的な構造をなしているといえるのならば、それは通俗的なラマルキズム的解釈でかまわないのかもしれませんが、それ以上微分できない複合体などあり得ようがないものです。決定原因という第一概念に固執する方々はその後のあらゆる流れや変化の事実描写すらできないことを知らなければなりません。

 

そしてそれに加えて、ここで結果がプロセス全体によって決定されることを知った私達はそれでも自己のプライオリティーを謳いたい衝動に駆られる時、どのような道徳を構築すればよいのかと落日を仰ぎ見ることになります。

 

2006年11月24日
ayanori [高岡 礼典]
2006_秋_SYLLABUS