芸術性理論研究室:
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11.23.2005

完成・終わりについて

 

芸術家が筆をとる瞬間の激動は作品を仕上げたことがない方でもそこへ至るまでの様々な苦悩は容易に想像のつくことと思います。「作る理由」を無媒介に見出すということは「ひらめき」などといったジャーゴンが未だ死語にならないように理論付けが困難な局面であるためです。しかし独りの芸術家が思い悩む最大のシークエンスとは「作り始め」以上に「作り終わる」ところにあります。

素朴な確認から述べるなら、私達は生きている限り「終わり」がありません。私達の生の最中に一時停止や死などといったものがあれば、それは生を意味しません。生とは一回的な連続によるコンテクストです。これは俗語となって至る所で謳われますが、宗教の産物である制度内容から逃れられない現行社会で生きる私達は即座に「分節」ある空間へと戻されてしまいます。入学式・卒業式・結婚式・七五三といった通過儀礼、日常の行為規範である様々な「法」や「礼」が私達に「過去のリセット」と社会信仰を訓育する努力を行います。

この社会構造の複雑・重層化の起源を私は過激な理論至上による一元論者にあると考えます。それは端的な混同による乱暴な産物です。『創世記』を筆頭に世界中の宗教の語り始めにある世界創造の物語は起源論以上に区別(コード)の概念を導入した分化の認識論を含んでいます。『区別』とは区別するものを決して前面へ押し出すことのない他者言及的な概念になります。かつてアウグスティヌスが述べたように「美」を区別するコードは「美しい」か「美しくない」かを判断しているのであって「美とはなにか」を判断しているわけではありません。コードはコード自身を思索の対象とすることができず、自己を永劫に裏側へ幽閉し、かつ永遠の前提とするものです。そのため『区別』は不可侵の『第一原理』を産み出してしまいます。経験の領域を無限に拡大していけることを私達は論理的に可能としますが、自己の領域を無限拡大することや、自己自体を自己が道具化することは論証不可能なため「不可侵」とはどこまでも自己へと配分される概念であり、そのため『第一原理』は個の背後へと潜んでしまうことになります。ここから人は神を手懐け、手当りしだいに分化する潜在的な思想を手に入れました。それが「理性」であり「主体」です。一般に「主体」といった概念はポスト神的に説明されますが『第一原理』を遍在しないもの共同所有不可能なものとして一元論が支配的だった思想期のほうが動因を記述しやすく自律的だったという意味で、神的概念が有用性を保持していた頃のほうが個はより主体的に振舞っていたと考えます。

そしてこの一元論による体系論者は区別を一義的に乱用することによって自/他の『分化』と生活空間における「分節」とを当然的に等しく描き始めました。認識論が考察の対象として担うべき『分化』の問題と科学理論が担うべき「分節」の問題を同一の原理によって根拠付けようとしたために、私達の社会には今も拭いきれない違和感が残存することになったのです。『分化』とは疑うことができない区別の局面を描く哲学的認識論ですが、「分節」とは等質的に連続した空間を複数個にパックする根拠製作的な社会科学による時間論になります。前者は論理を準拠とした自己創造的な本有域での活動であり、他者を積極的に定義することのない行為の前提ですが、後者は本来的に守るべき規定が一切ないところへ即行性を向上するために選択原理のガイドラインを作る、他者製作的な占有・所有域での活動になります。『分化』は無謬的な枠が立上がるので非創造的のように思われるかもしれませんが、それは一切のメディアを必要とすることなく自己準拠の図式を自己設定する創造的活動といえます。それに反して「分節」は非普遍的な価値原理による他者への要求を含むので、法や制度のパワーを用いて共有はできても相互本有化できません。無の場へ有を企てるので「分節」は創造的なのですが、他者へと強要しなければならないので、それは捏造的活動としか呼べないものです。

通俗的な「創造」の理解は「無から有をつくる」ことになっていますが、その原定義を天地創造に倣うのならば、それを厳密に換言すると「無から有を超越論的につくる」といわなければなりません。未・無確認に他者一般へと受容可能性を含む制作を「創造」と呼ぶのであって、節操なく何でも作れば創ったことになるわけではないのです。

社会的生活空間における「分節」とはその「創造」的な本来性がどこにもない強行的な産物です。区別の種である『分化』と「分節」を同等に扱い、『創造』と「捏造」を区別することを忘れ、「捏造行為・詭弁」へ創造の権威を与えることによって、人類は個人史の最中においてすら、様々な完成・終わりを設けていくことを慣習化してきました。それによって社会系は統合力を得ることになったのですが、またそれによって、それが捏造の産物であるために、芸術家は生の本質を跳躍しなければならない最大の苦悩を得ることにもなったのです。

「完成」とは芸術家にとって『生と死』をともに含むアンビバレントなものです。それによって作品が産まれることになるのか、それによって作品にダイナミズムが失われ死ぬことになるのか。それは捏造された概念による問いなので認識を超えた無意味なものです。有限であるとはいえ連続者である私達に完成などといった概念は認知不可能なものなのです。

一見すると完成された作品は截然と整序しているので鑑賞者には美しく見えるかもしれません。しかし作品は作家にとって自己に帰属する自己代表者であり、自己の生がある限り終わってなどいないものなのです。脱稿したかのように思える論文のあとへダラダラと「付記」を追加できるように、また古代の劇作家が「機械仕掛けの神」を常套手段にしたように、完成とはオーディエンスに媚び諂う自己敗北なのです。

ここで芸術作品鑑賞におけるひとつの倫理が見出されることになります。

作品とは鑑賞者にとって作家からの慈悲になります。多くの批評は作品を見ることがあっても作家の全体を含むことがありません。鑑賞者にとって作品はひとつの切り取られた邂逅ですが、作家にとって作品とは論述過程の部分でしかないものです。部分とは全体を指向して初めて部分と呼べるものです。部分にとって全体は存在の根拠になるので、部分だけを見ることは理由のない無意味なものを凝視することです。判断するに必要な材料がないにもかかわらず如何にして批判すれば良いのでしょうか。私達は作家の生の文脈を意味論として受容してこそ、ひとつの作品を知ることができるのです。

 

2005年11月23日
ayanori[高岡 礼典]