芸術性理論研究室:
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11.21.2007
 
COUTION ! [ご注意下さい]
このコラムは思想的誤読から哲学への道程を確保するための試みです。思想文ではありません。
 

擬態と制裁

 

擬態にはトラやシマウマの迷彩柄のように生得的な固定(的)形質がある一方、タコやカメレオンのように任意の環境色に即同化する相対的なものがあります。それらは捕食/被補食に関係なく、外敵からの視線を逸らすように ─結果的に─ 働くので、自己隠蔽の擬態と呼べます。また、動物達の擬態は、その多くが無生物や植物、他の動物種の姿を模倣して自己の生命維持を企てるので、「一方的に他者を利用(引用)する利己的活動」ともいえます。しかし植物へ目を向けると、動物らのそれとは少し質が異なります。拡張はあるもの、自体の移動を不得手とする植物にとって、特定的な敵種なるものは存在しません。敵は相互に同等の時間論を行為レベルで共有できる場合のみ関係成立が果たされるので(*)、植物にとっての競争相手は「自分だけ」といえます。一見では、自己の周りに群生する植物らは、植物的な「自己」にとっての「他者(敵)」のようですが、人類の描写理論を大きく超えている領域になるので、ここでは言及せず、植物を無敵(背景)として描きます。すると、植物達の基本形質から擬態までの疑似解釈が容易になります。無敵であり背景である植物は身を潜める理由がなくなり、振る舞いは自由になり、利他性を帯びてきます。「自己と他者、環境」ではなく「自己と環境」という単純な世界認識になると、競争性が立ち上がらないので、奉仕・犠牲性が自己保存と同価で潜在していきます。この相反する可能性のセットは利己性による単一原理にこだわらない植物にとってはアポリアになることなく、容易に統合へと至ったことでしょう。昆虫や動物の好む甘い蜜や果実、人の愛情をくすぐる花びら等を用意し、環境を引き寄せる顕示的な擬態を採択し、他を豊かにしていくことで自己の目的を完遂していく策は他者不在の創世では筆頭の選択項となるはずです。共生という互酬関係の提唱・嚆矢は植物といえるかもしれません。

(*)人類史が「自然界」を『敵』と看做す時、それは比喩でしかないように。

ここまでの叙述は目的論的な読み方になるので、生物学的には応用できない思想以下のものなのですが、もう少しだけ、この擬人的解釈を進めると、人間(社会)の枷が見えてきます。

即座に体色を変化させるミミック達を観察してみましょう。しばしの間“ natural selection ”の真意を忘れて、人の目で見てみると、その達人技に感嘆しつつも、疑問がひとつ湧いてくると思います。「彼/彼女らは鏡もないのに、なぜあんなに上手く真似ることができるのだろうか」という疑念を誤読できるはずです。当然、進化論的には偶然の発生を偶然の競争によって間引かれてきたにすぎない結果ということになるのですが、同じような技を「技術」として人が身に付けるには、自己を完全に客体化する段階が変色過程のどこかに一回以上は含む必要があります。意図的存在は「失敗しうる存在」といえるので、現場面においての前場面の行為は、前々場面の目的を遂行したに値するのか否かの反省確認・判断を行なわなければならないという意味です。寸分違うことなく環境と同じ色・柄を身にまとう擬態を繰り返していく「タコやカメレオン」に対し、非生得的な私達は正解のある行為へと挑む場合、必ず見直す必要があります。前進的な制作過程において生じる「ズレ」を「ズレ」として描く場面は、古典的な入出力批判ではなく、「自分の体の使い方、その修得」を指示し、後退的な再構成の段階があることを教えてくれます。

日常の私達にとって、当たり前のように思えるかもしれませんが、この人的営為におけるパーミュテイションは、人間特有のものになります。ここではその「ズレ」に気付く場面を「自然選択」ではなく「自然淘汰」に対して『自己制裁』と呼んでおきたいと思います。

そしてこの『自己制裁』は超越論ではなく『超越構成』へと導いてくれるはずです。

 

2007年11月21日
ayanori [高岡 礼典]
2007.秋.SYLLABUS
 
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