芸術性理論研究室:
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11.15.2005

決定論的情報について

 

朝、テレビや新聞をひらけば天気予報から始まり、十二星座占い、血液型占いと続き、価値中立的に事実のみを伝える態度をとるべきアナウンサーが個人的な判断内容をまるで確定しているかのように公衆へ伝え、経済・政治学者の予測が権威的にならび、通勤・通学や外出の方途を知るための様々な交通情報等がならび、雑誌をひらけば音楽や映画、衣食住にまつわるものがランキングされ「流行」という概念操作が乱立し、神的概念を排除したかわりに使い古された「無意識」や一般大衆には確認不可能な「遺伝子」といった神が擡頭することによって、私達の生活空間には行為や価値の規範を構成するためのサンプルがそれらを先行決定しているかのように並んでいます。

マスメディアの構成要素は本質的にエンドユーザーの自己行為の可能性を拡大するものであるべき筈にもかかわらず、マスコミと呼ばれる方々は如何にその本質を無効化するかにあくせくし、選択圧を上げていくことに努めます。ここではロラン・バルト流のエクリチュール・象徴論を展開し、支配のマキャベリアンを育てる徳の制作に再度協力したいわけではなく、決定論を埋め込まれた情報を字義どおり未加工に受容してしまう現行大衆へ注意を促したいだけに過ぎません。

自己の正当性を各々主張する情報の多さに攪乱されバインドされ、選択プロセスを終了できないことに嘆く凡庸なペシミストは世界からの暴力的行為による被害者などではなく、確たる選択原理を維持できない自己敗北者でしかありません。演繹可能な命題とはパワーシステムによって暫定的に設定された真理であって、無条件に首肯可能な自明の「絶対真理」などではないのです。目の前にある写真に対して『つまらない古くさい紙くず』と思う人もいれば、『大切な誰かの思い出を代表する形見の品』と思う人もいるように。それは「写真」といったマテリアルを構造的に共有しているに過ぎず、意味内容や価値は「存在」を超えた現出不可能なものであり、その担体は他者ではなく自己に限定されているのです。

社会空間に「絶対真理」などあるわけがなく、それは従いたければ従い、従いたくなければ叛けば良いだけの項目でしかないものです。そもそも技術革新が起こる以前より私達を取り巻く環境・自然は認知レベルを超えた「大なる」ものです。同様に自然にとっても認知レベルは自然を超えた「大なる」ものです。相互は同一の地平(境界)によって接続されているわけでも、共有しているわけでもなく、単に関係化されたものであり、その関係性は永遠としか形容記述できないものなのです。

この無限の距離を無効化するために決定論を反省的かつ能動的に準拠とすることは行為を必要としてしまう私達には不可避の自己攪乱かもしれません。そのようにしなければ自己の理由付けができず、他者へと干渉する際の責任の保持ができなくなってしまいます。しかしこれがマスパワーの経路を利用することによって、人の真理を隠蔽し幻想を絶対化してしまう覇業は、やはり自惚れた暴力と述べざるを得ないでしょう。

 

2005年11月15日
ayanori[高岡 礼典]