芸術性理論研究室:
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11.14.2007

成文と詩

 

以下はチューリングテストに関係しそうでいて、逸れているコラムです。

何でも覚えてくれるコンピューターがあるとします。そこで辞書を一冊用意して、収められている単語と語意をすべて入力したとします。次に文法を教えます。そしてテーマを与えると反応的に明文をディスプレイする機能をプログラムすれば、そのコンピューターは口火を切れなくとも、コヒーレントな成文作成器になることでしょう。半自動作文のアプリケーションは、ひとつのテーマからコネクショニズム的なリゾームをコンピューターが拡張することによって、まるで人がイメージを膨らましているかのように見せかけるよう組み立てる点が重要です。あとは既存のランダムを入力しておけば、コンピューターは線形確保に成功し、同じひとつのテーマから様々な文章を作ってくれるはずです。

入力した本人は、自動で語を有意味に並べていくコンピューターに面白味を感じることでしょう。しかし暫くすると明文の成文にも飽きてくるかもしれません。そこで今度はコンピューターに詩を創れるように、統語部分から語間を形成する意味連関を削除して、無秩序に作文するよう変更したとします。これでコンピューターは先程までの「成文作成器」から「カテゴリー・ミステイク・メイカー」へと変身を遂げるはずです。次から次へとカットアップが繰り返され、過激なアプロプリエーション(流用)ような文書が量産され、入力者はその支離滅裂な非整合性に笑いを見出すことでしょう。

 

私達はどんなに非論理的な文章であろうとも、何らかの意味を読み取ろうとする詩情なるものを本有しているといえるので、少しの自由と知性さえあれば、出鱈目な文章を契機にして心域を豊穣化することが期待できます。そのため、反応だけの人工知能なら、容易に作れそうに思えます。しかし、卓越したプログラマーがいたとしても、散文と韻文によって構成される複合詩を違和感なく作成するコンピューター(ソフト)は作れないはずです。昔からある、電子計算機へ芸術的な創造力賦与の不可能批判の要は「有限であるが故の情動の教え難さ」ではなく、厳密には「情動コードの教え難さ」と述べる必要があります。叙事から叙情へと流れ往還し、韻を踏みつつも、また散文へと戻り、突然に挿入される変調を経ても、心のゆらぎに合致していく様は論理/非論理では描けません。私達の選択論理を煎じ詰めていった時、説明できない情動が働いて選び取っているとしか言えないことと同様に、その場面展開も『情によるパーミュテイション(順列変更)』なので、関数化不可能なのです。ふた昔ほど前に巷に流布された1/fゆらぎが似非科学と言われる所以も、冗長なる心から観ると単純すぎるためです。

 

鑑賞者の心には可塑的でありながらも固有の『流れ』なるものがあります。それが一般の向こう側に位置するものであろうと、─位置するものであるが故に─ それを言い当てる技は、これからも作家の芸術性に由来する特権として守られていくことでしょう。

 

2007年11月14日
ayanori [高岡 礼典]
2007.秋.SYLLABUS
 
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